9月15日 アジアの風に目を細めて
夕闇の迫るシエムリアプ(Siem Reap)に着いた。乗っていた飛行機は滑走路にタッチしそうになりながらそれでも着陸をあきらめ、再度着陸をやり直すほどの強い雨。それでもブリッジはなく、タラップを降りる。カンボジアの地に足を着ける。
空港の外に出たら雨は止んでいた。典型的な雨季のアジア。スコール。ホテルの予約すらしていないので、とりあえず市内に向かおうと庶民の足モトバイに乗る。市内まで1ドル。東南アジアの街をよく走っている、カブをおしゃれにしたようなバイクの後ろに乗って、どんどん暗くなる道を走る。スコールの後とあって、風も湿気を含んでやや涼しい。
この匂い、この空気、この風。心の奥底にある、普段はフタをしてあるような小さな部分を優しくなでられたような、そんな気分になる。懐かしいというのともちょっと違う。「帰ってきた」に近いけどちょっと違う。安心感に近いような。興奮はしていない。高揚もしていない。日本では、風船をふくらませるかのように、心の緊張を保つために自分の中に自分で空気を送り続ける。その栓を抜かれた感じというのが一番近いか。やはりアジアが好きなのだ、それも論理的な理由ではなく肉感的に好きなのだと実感する瞬間だった。
ドライバーはポールと名乗った。人懐こい丸顔の青年。ポールという名は似合わないが、ポーなんとかかんとかというカンボジア名を外国人に分かりやすいようにしているニックネームだろう。彼の知り合いがやっているというホテルに案内してもらう。ホットシャワー、TV、エアコン付きの広いツインルームが1泊17ドル。カンボジアの安宿の感覚では高いけど、もう暗くなっているしとにかく最初の晩はここに泊まることにする。
雨の合間に街へ。露店街で夕食。隣の客が食べていたゆで卵を頼むと、かわいい男の子が食べ方を教えてくれた。最初は様子をうかがっていたが、そのうち慣れてきたのか笑顔を爆発させるようになった。この笑顔が見たくてここまで来たようなものだ。
蚊もいない。鳴くヤモリもいない。空いた隣のベッドにも当然だれもいない。低くうなるエアコンの音を子守唄にして眠る。
9月16日 アンコール、encore
昨日のポールを1日借り切って7ドル。遺跡見学へ。遺跡群はシエムリアプ市街から北へ10キロ弱、その向こうに広がっている。
まずは一番手前のアンコール・ワット。マチュピチュに行った時の教訓で、周りから見ていくのではなく、最初にまっすぐ本丸を目指す。一番高い尖塔に登るには見たこともないほど急な階段を上る。蒸し暑いけれど石造りの建物の中にいると徐々に汗も引く。尖塔を降りて3つある回廊を回りながら外へ外へと。
一番外側の第一回廊には見事なレリーフ。創建当時のものは素人目に分かるほど優美だが、後世のものは表情がなく平板。一番気に入ったのは乳海攪拌。ヒンズーの創生神話に題を取ったもの。
寺院から外堀までの間にある池では子供たちが水浴びをして遊んでいた。観光地アンコール、宗教施設アンコール、どちらもなんだかふさわしくない。修復は進んでいるが、魂がないような感じを受けるのはちょうど、チベットはラサのポタラ宮のよう。子供たちが遊ぶアンコール。それがなんだか一番しっくりきた。
クメールの微笑みをバイヨンで見て、映画「トゥーム・レイダー」の撮影に使われたというジャングル寺院タ・プローム、象のテラスや王宮を回って、最後に日の入りを見ようと小高い山の上にあるプノン・バケンへ。しかしポール、「きょうは夕方、1時間だけ学校に行きたいんだ」。お金ができたら学校に行って、少しずつ学んでいるようだ。それを言われたら断れない。しかも雨季だからジャングルに沈む夕日がきれいに見えるとも思えない。
市内に戻って通りをぶらついていると、昨夜ご飯を食べた露店から少年が駆け寄ってきた。顔を覚えていたらしい。うちで食べていけと熱心に誘われたが、できるだけ違う店も味わっておきたい。笑いながら手を振ってバイバイ。ちょっとこぎれいな店でLakLokという料理で夕食を済ませる。
暗くなってもおばちゃんたちが道路わきに果物を並べている。モンキーバナナを1000リエル(約30円)で。値切るのはちっとも苦痛でない。駆け引きも現地の人との接触のうち。ビールを少し飲んでほろ酔いになりながら、16ドルに値下げされた宿にふらふら戻る。
9月17日 凶暴なまでに従順
2000年、史上最高にハードだというシドニー五輪のマラソンコース。そう、あの高橋尚子が走って金メダルを取ったコースを私は事前に自転車で走った。ほぼ42キロ。そして今は通勤に自転車。そしてもちろん、カンボジアでも自転車。バイクで回っては味気ないし、時間だけはあるので宿で自転車を借りる。どこにでもあるママチャリ。前のカゴに荷物と水を入れて走り出す。
カンボジアを統治していたフランスが作ったという見学コースがあり、「Grand Tour」と「Mini Tour」。もちろんグランドの方へ。アンコール・ワットやバイヨンは素通りして東へ。昨日も来たタ・プロームまで一気に走り、動物的な根っこを見ながら小休止。プレ・ループ、東メボン。そこで休憩。そして遺跡群の中で最も気に入ったプリア・カン。静かに森の中にたたずむ遺跡だった。そしてしばらく行けばバイヨンに出てくる。これで半日。舗装はされているけれどもアスファルトが荒い道を同じ姿勢で漕ぎ続けるのはやはりつらい。お尻が痛いし、頭上から容赦なく照りつける太陽も痛い。
シエムリアプにもあるという「Killing Field」は遺跡群と市街との中間にある。帰りに寄ってみる。1970年代、ポル・ポト政権下で国民数百万人が殺されたという。その寺にも近くから見つかったという頭がい骨と大腿骨が積まれていた。もちろんカンボジア人に聞けばポル・ポトなんて唾棄すべき存在という声が帰ってくる。この寺にも「The Killing Field of SAVAGE Pol Pot Regime」という看板があった。
それまで私の頭の中では、おとなしくて慎み深くおだやかなカンボジア人を見ていて、どうしてもその「savage」と結びつかなかった。都市から農村への強制移住、知識層への迫害、強制労働、虐殺。そんなことをする人とは対極にある人たちのような気がしていた。
でもこの寺に来て分かった。彼らは、「異常」なことにもまた従順だったのだ。反骨も反抗もなく、「そうしないと自分が殺される」という理由で隣人を密告し、ある時は殺害に手を貸したのだろう。それは戦前の日本を見れば分かる。「万世一系の天皇」「神風」「神国」などという、およそまともな頭で考えればおかしいようなことさえも、それをどこかでおかしいと思いながらレミングのように付き従った。おかしいと言えば特高警察に捕まる。治安維持法にひっかかる。カンボジア人はその根本において、日本人によく似ているのかもしれないと思えてきた。
凶暴なまでの従順。それではいけないのだ。「これは変だぞ」「それは違う」と感じる感性、それを表明できる勇気と力、おかしいものを変える実力を持たなければいけない。反骨。そう、へそ曲がりではなく反骨。羊になるな。肥えたブタよりやせた狼に。
9月18日 犬死
自転車2日目。「地雷を踏んだらさようなら」との言葉を残している一ノ瀬泰造の墓参り。ポル・ポト派が支配していたアンコール・ワット撮影を夢見て消息を絶ったカメラマンだ。いくつかのサイトで墓までの行き方を見ていたけど、それらの記述がどれも分かりづらい。タクシーやバイクをチャーターして行く人はそれでもいいのだろうけど、自力で行こうという人には誤解を招くだけ。以下、正しい行き方。
Grand Tourを半分以上回って、プラデクという集落からバンテア・スレイ方向に東にそれる。両側に民家やジュース売りが並ぶ中、少し行くと左に、つまりバンテア・スレイに向かう丁字路がある。そこを曲がって田んぼの真ん中の道を行く。最初の林で右に曲がる角がある。その角には、泰造の墓の方向を示す看板があるが、風雨で薄くなっており、それを目印にしていくと私のように迷うことになる。とにかく田んぼの真ん中の道を走って最初の林の中の丁字路を右へ。もしこの角を見過ごせば、少し先に検問がある。ここまで行くと行き過ぎということ。角を右へ入って行くと、さらにひなびた集落を通る。ここもしばらく行くと、左に堤防が現れる。ここにも看板があるが見つけづらい。とにかく堤防の上を走ると思えばよい。堤防の上をしばらく行くと、今度ははっきりした看板があるが、矢印はそのまままっすぐ進むように間違って示されている。この看板で堤防を降りるように左に曲がるのが正解。小さな小川にかかる橋が目印。その橋を渡れば、その先に墓がある。
こうして苦労してたどり着いた墓だが、案内人と称する女性は金をせびるし、土産物を買っていけとうるさい。一介の異人のカメラマンの墓でさえ商売になるようだ。それだけ日本人が来るということだろう。
しかし、自力で来てみて疑問が浮かぶ。本当にここで泰造は死んだのか。
まず位置関係がおかしい。シエムリアプの北に彼が夢見たアンコール・ワット。もし途中でポル・ポト派につかまったのなら、市街地とアンコール・ワットとの間か、その近辺で消息を絶っているはず。しかし墓があるのは、アンコール・ワットから北東に直線で10キロ弱。ここまで連れられて処刑されたというのか。それはちょっと考えづらい。
しかも骨が見つかったその場所というのは、言ってみれば田んぼの真ん中。ポル・ポト派がそんなところで日本人を殺すだろうか。人を殺すにはかなり不似合いの場所だ。
「その場」を特定したのも、村人の証言通りに骨が出たから、ということだったと記憶している。しかしその時代、多くの人が殺されたこと、さらにカンボジア人の「違う」「嫌だ」と言えない性格を考えると、日本人が「ここで日本人が死んでないか」と聞いたら、「違う」「知らない」とは言わない。だれか別の人と取り違えているのではないか。そんな違和感が強く残る。
これは、彼の生き方に対する私の違和感から来ているのかもしれない。だれもまだ撮っていないというだけの理由でアンコール・ワットを目指した彼。仮に撮ったとしても、それほどのニュース価値があるとは思えない。しかし、自分の目指すものに一途に取り組んで26歳で命を落とした彼の生き方に共感する人も多くなっているらしい。しかし、それは「プロ」の生き方でもないし、「ジャーナリスト」の生き方でもない。他に報じること、報じる意味のあることはもっとあったからだ。シエムリアプで、間近で子供の爆死を見ている彼ならなおさらだ。生の意味、価値を軽く扱ったかのような彼には、いらだちに似た気持ちを抱く。
墓前で手を合わせながら、「私はこんなところでは絶対に死なない」と誓う。その気持ちを強くしただけでも、ここまで一人で来た意味がある。
9月19日 自分にできること
カンボジアに来たのは何も観光だけではない。前日のように戦争の愚かさをしっかりと心に刻みつける目的もある。きょうは個人が開設している地雷博物館へ。ここでも「地球の歩き方」の記述は参考にならない。毎年、本当に現地調査をしているのだろうか。博物館が普通の村の中にぽつんとあるだけに、普通に行ってもかなり不安になる。
一番分かりやすい行き方は、遺跡群をまず目指し、チケットチェックを通り過ぎて右手に動物園の表示が見えたら右に曲がる。そのまままっすぐ行って動物園にぶつかったら右へ。少し行った左手、博物館とはちょっと思えない小屋がその場所。
アキー・ラー氏は、自分も地雷を埋設してたことから、その罪をつぐなうために自ら地雷処理をしており、地雷被害を訴えるためにもここを開いたという。過去したことに口をつぐんで知らんぷりをする人が多い中で、勇気ある行動と言えるだろう。
しかも日本からボランティアとして男性2人が来ていた。地雷について詳しく説明してくれる。地雷処理をしているNGOの中でも間違った知識がはびこっていると話してくれた。年間、分かっているだけでも850人が地雷や不発弾のせいで亡くなっているという。もっと多くの人が体の一部を失っている。シエムリアプの市内や遺跡の中で、どれだけ多くの義足の人、松葉づえの人を見たことか。カンボジアにとって内戦はまだ終わっていない。
夕食は民族舞踊アプサラ・ダンスを見に行く。バリ島やタイの踊りにも似た身のこなし。しかしその踊り手の多くもポル・ポト派に殺され、伝承も風前の灯火だったらしい。観光客に見せてドルを稼げるまでに回復したということを、まずは喜んでおこう。
9月20日 泥の河、泥の湖
なーんにもすることがないので、宿の先に手ごろな木を見つけ、その木陰のベンチで日本から持って来た小説を読む。宮本輝の「泥の河」。短いし。しかしカンボジアの青く抜ける空の元で、からりと暑い風に吹かれながら読む内容ではない。読み終えたら案の定、しんみりしてしまった。関西弁だからニュアンスまで含めてよく分かってしまう。
夕方、思い立って郊外にあるトンレサップ湖へ。面積1万平方キロ。東京都が2000平方キロだから、その5倍。いかに大きいか分かる。例のごとくバイクの後ろに乗って湖へ。細長いボートに乗って湖へ。
湖面には水上生活者が多い。遠くはマレーシアから、メコン川を遡ってやって来るという。それだけ魚が豊富ということらしい。中でもベトナム人が多い。これは、カンボジア人と仲が悪いと言われているベトナム人が、陸地に住みづらいということもあるのかもしれない。
水路の両側に船がずらっと浮いていて、家もあればレストランもあれば学校もあれば船のエンジンの修理工場もあれば雑貨屋もある。水路を走っていると、まるで陸上の生活と変わらない。道路が水路に、バイクが船になっただけに思える。そしてアシの生える部分を過ぎると、目の前をさえぎるものが何もなくなった。湖なのに水平線が見える。水は透明度が低いけど、思ったほど汚くはない。
シエムリアプよりも観光客に対するがめつさがひどくて、景色以外はあまりいい思いをしない。金色に輝く夕陽を見て、暗くなった市内に戻る。
9月21日 自分で生きる感覚
オールドマーケットやその周辺で土産物屋をぶらつく。5ドルのものを4ドルに、2ドルのものを1ドルに、1ドルのものを2つで1ドルに、値切りながら歩く。時々、せいぜい100円程度のことになぜそんなにこだわるのかと自問する瞬間がある。相対的に豊かな国からやって来て、不自由のない金を持っている身。相対的に貧しい国の人に恵む感覚で、言い値で買ってもいいのではないかと。
しかしそれは違う。わずか1ドルにこだわり、1ドルを節約する感覚は、つまりは現地の感覚で生きているということなのだ。その1ドルにこだわらないということは、つまりは日本の感覚を世界中のどこでも引きずっているに過ぎない。それは私の求める「旅行」ではない。特に海外旅行は、自分の感覚と現地の感覚が、どこで接点を見いだせるのか、そのギリギリの1点を見極める点にある。何もすべて現地感覚になる必要はない。どこがその境界線かを見いだす作業こそ、私にとっての旅行でもある。日本の感覚をそのまま価値観が違う国に持ち込むのは、そういう真剣作業をはなから放棄した姿勢であると映る。
飛行機の予約だけで、宿も何もかも予約しないで行く旅行。それはまた、自分のふだん生きている環境から離れたとしても、自分の力で何とかできるということを再確認し、まだ出来るのだと認識し、何ができないのかを見極めることでもある。楽な旅行がしたければパックでよし。現時点で私は楽であることを旅に期待していない。むしろ、むかついたり驚いたり嘆いたり諦めたり怒ったり笑ったり寂しくなったりつらくなったりする、そんな心の振幅が大きい方がいいのだ。
夜遅くの便でシエムリアプを離れ、ヴェトナムのハノイへ。ノイバイ空港からハノイ市内へのタクシーは本当に気をつけたほうがいい。いきなり嫌な思いをした。ここだけは「歩き方」も正しかった。
9月22日 街のノイズを飲み干す
実質わずか1日。ハノイでの滞在時間。それでハノイのすべてが見られるわけがない。反面、この日は月曜日で、主要な観光施設はほとんどが定休日。では何をするのか。もちろん、歩き回ってハノイの皮膚感覚を身に付けることしかない。
朝からハンザ市場や、「ハノイ・ヒルトン」と皮肉られた収容所など、宿を取った旧市街と、その南にあるホアンキエム湖の周りを歩き回る。疲れたら休めばよろしい。予定は何もないのだから。ハノイの旧市街は、区画ごとに商売がかなりくっきりと分かれている。ここは銀製品、ここは洋服、ここは靴、ここはインテリア、ここは楽器、ここはフォー、ここは何々、と商品ごとに細かく。従って洋服の区画でお土産物を探しても無駄。必要なものがあれば必要な街区に行くというのがハノイ流らしい。
昼過ぎ、一通り回り終わってホアンキエム湖のほとりのベンチに座る。湖面を渡ってくる風は、シエムリアプの風とは違いかなり快適。しばらくすると汗もひいていく。絵葉書売りも何度も来るけれどしつこくはない。物乞いも真剣さがない。湖に向かって座ると背中には道路を走るバイクや車の騒音。炭酸が弱いコーラを飲む。最後の一口、缶の中に中身がなくなってもしばらく目を閉じて缶を口に当てたまま目をつぶって上を向く。まるで背中の騒音もすべて体の中に取り込むかのように。
夕方、名物という水上人形劇を見に行く。観光客相手のものだし、人形劇だからといくぶんバカにしていたが、言葉が分からなくても楽しめる分、気付けば引き込まれていた。1時間ほどで4万ドン。約300円。
昼間はチェーというかき氷の一種を屋台で5000ドン。約40円。人形劇を見た後は路上飲み屋でうすーいビール、ビアホイを2杯。これは3000ドン。25円ぐらいか。シエムリアプよりもかなり物価が安い印象。ほろ酔い加減で宿に戻る。
9月23日 わらわら
午前4時半にモーニングコールを頼み、45分にはタクシーで空港へ向かう。外はまっくら。旧市街ではもうフォーの店が開店していて、客も結構入っていた。バイパスへ出ると、まっくらな中、路上市場らしいところでは車が進めないぐらい人がいる。まっくらなのに。どうやって商品が見えているのだろう。7時半に飛行機が離陸。3時前、無事成田着。めでたし、めでたし。
Do you have any questions? Why not ask me? |
|