12月24日 14年ぶり
この年末年始をいかに過ごすべきか。普通に帰省することもできるし、南の島へ行くこともできるだろうし、スキーに行くことも、だらだら酒を飲んで過ごすこともできる。しかし、何か違うことはできないか。この1年でやり残したことはないのか。
そう考えて浮かんだエジプト。まず私にとって初のイスラム圏。遺跡はたくさん。知り合いが2人いる。僻地好きの私にはアクセスの悪さもかえって魅力だ。
てなわけで、アリタリア航空787便でミラノへまず向かう。シベリアの北極圏をぐるりと回って12時間ほどで到着。空港からシャトルバスで市内のホテルへ。シャトルバスは4.5ユーロ。そういえばあの桁が多くて金持ちになった気のするリラはもうないんだった。シャトルの到着場所は中央駅(写真)。巨大なローマ風石造建築で有名。そう、1989年の初めての海外旅行のとき、電車で移動していた私はミラノで乗り継ぎのため、この駅だけを見学したのだった。その時も「なんや、こんなもん」という感想だったがそれは今も変わらず。駅近くのホテルにチェックインして夕食を探すも、クリスマスで開いている店がない。結局、駅前広場の屋台でパニーニにケバブハンバーグを乗せたものを食べるのが精いっぱい。うまかったから許してやる。3.5ユーロ。金銭感覚がまだつかめぬ。思ったよりしっかりしているホテルの部屋に戻って寝る。一夜限りのミラノ。
12月25日 カイロは砂塵の中に
早朝のフライトに乗るため、朝7時15分からだったホテルのブッフェを食べられないのが悔しい。料金に含まれているのに。とことんミラノとは相性が悪いらしい。どこかで読んだ村上龍がさかんに「ミラノのシャツ屋で買い物をした」などと言っていたから、そういう意味でもミラノと私は合わないのだろう。
ミラノ発10時のアリタリア航空882便でカイロに向かう。地中海を縦に進むだけだから1〜2時間のフライトだろうと思っていたら、実際4時間かかる。カイロに着いたのは午後3時ごろ。高度を落とした飛行機の窓から見えたのは、土と畑を見慣れた私にとってはプチ・カルチャーショックの「砂漠」。集落も畑らしく区画もすべてクリーム色。いよいよ空港が見えてきたら滑走路の脇までクリーム色。芝生なんかない。砂の中にすべてが埋まっている。
ビザは空港で15ドル。銀行のカウンターで払うと切手みたいなものを2枚くれる。それを自分でぺたりとパスポートに貼ってパスポート・コントロールに並ぶ。スタンプを押してはいおしまい。そのブースの手前、つまり制限区域にもう客引きがいるのがエジプトらしい。
迎えに来てくれた知り合いと車で市内に向かう。交通量は多いが、道路は東京よりも立派だ。走っている車は日本よりぼろいけど、マナーはよっぽどいいかもしれない。高速道路の高架を走りながら見やったカイロ中心部は砂塵かスモッグかもやなのか、黄色いものの中に埋もれて、高いビルなどの頂上の輪郭しかわからなかった。
さっそく荷をほどいて、夜はナイル川クルーズ。パリのバトー・ムッシュ、NYのマンハッタン・クルーズと同じと思えばよろしい。食事をしながら船でぐるりと回る。ただ船から見えるものにそれほど目玉があるわけでもなく、食べながらショーを見るのが中心。豊満な女性のベリーダンスやヒゲおじさんの旋舞・スーフィーダンス(写真)を見る。外気は想像以上に寒い。エジプト=アフリカ=砂漠=暑い、という単純な公式は成り立たず、自分の脳内のイメージと現実とをすり合わせられない。ここはエジプトなのか?そうなんだろうなぁ。
12月26日 小学校の社会科で習ったよ
午前4時15分発という飛行機があること自体、驚きだが、その便が大混雑、満席だというのも驚き。カイロ発のエジプト航空で南に1時間、アスワンへ。そんな早くに着いてもホテルのチェックイン時間には相当あって、空港とホテルのロビーで時間をつぶす。
社会科で出てきたアスワンハイダムの近くからボートに乗ってダム湖の中にあるイシス島へ。そこにある神殿を見学。湖上はやっぱり寒い。午前中は空気が冷たくて。ぐるっと回って市内に戻り、今度はダム下流でファルーカという帆掛け船をチャーターしてナイル川に浮かぶ島を回る。遺跡としては小規模な貴族の墓、つまらなかったアスワン博物館、生活臭ぷんぷんの先住民ヌビア人の村など。3時頃にやっと食事にありつく。ナイル川沿いのレストランにて。コフタというソーセージに似たものなど食す。まったく平気。
しかしこんな平坦な場所にダムを造って、しかも経済効果は当初こそあったけれど現在ではむしろ害の方が大きくなっているというのだから、人間は浅はかというか。
中エジプトのこのあたりから南部はいわゆるエジプト人という浅黒い人種ではなく、黒人に特徴が似ているヌビア人の土地。以前はヌビア人には市民権もなく、neglectされていたらしい。集団定住させられ、その引き換えに市民権と福利厚生が与えられたとも。そういう土地に巨大ダムを造ったのは、そういう人たちだからエジプト人に与える被害よりも過小評価されたのではないか。タイの東北部に無駄なダムが造られたのと同じように。そういうことは社会科では習わなかったよ。
12月27日 ユネスコのお仕事
10時の便でさらに南のアブシンベルへ。何もない砂漠の中にナイルが一条。かなり遠くまで来た。それもそのはず、このあたりはエジプトの最南端で、数10キロも行けばスーダン。この空港に降りたつ人の目的はただ1つ。ラムセス2世のアブシンベル神殿。アスワンハイダムによって水没しそうだったのをユネスコが神殿全体をそっくり移設。空港を降りるともうそこ行きのバスが数台止まっていて、それにみんな乗る。そしてみんなで遺跡見学。風が強い。
大神殿はダム完成前は水際にあったものが、60メートル上に移された。同時に、そばにあったラムセス王妃のための小神殿も同様に移設。よくもまあこんな大きなものを移設したと、神殿そのものよりもユネスコの仕事にびっくりしてしまう。これがバーミヤンでもできれば良かったのだけれど。
ラムセス2世は、これから後も頻繁に出てくる。古代エジプト史上、最も自己顕示欲が強かった王。約3300年前、新王国時代第19王朝の王。要するに「こんな奥地でもこんな大きなものが造れるほど私の権勢は強いのだ」ということを示したかったらしい。はいはい。奥の至聖所には4体の像。ラムセス2世は右から2番目。なぜ中途半端な位置かと思ったら。実は彼の誕生日と王に即位した日の年2回だけはこの像のところまで太陽が差し込むように設計されているらしい。ただ左端は暗闇の神なので光が当たらないようにもしてあったらしい。つまりこの2日、太陽は右3体だけに当たるようになっており、その中心がラムセス2世となる。要するに「神の最上位は我」ということか。はいはい。
見るところは他にはない。帰りの飛行機に合わせて遺跡からバスが出る。それに乗って飛行機に乗り換えてアスワンに帰るか、そのまま乗り継いでルクソールやカイロに戻るかしかない。アスワンに戻ってまたもや遅い食事をスーク(市場)の中のレストランで。ケバブを食す。夕方からヌビア博物館へ。これは展示方法も洗練されているし、点数も多い。昨日行ったアスワン博物館とは雲泥。これで20エジプトポンド(約400円)なら納得。
またスークに戻り、ぶらぶら。どこの国のどの市場にもある生ジュース屋で「everything」を頼んだら、カットフルーツがてんこ盛りのシェイクのようなものが出てきた。これにも満足。スパイス屋の店頭にはプラミッド型に整形された真っ青な粉末がコショウやハイビスカスティーの葉やピーナツやターメリックなどとともに並んでいる。こんなものを食事に使うのかとぎょっとしたら、これは衣類などの染料とか。真っ青な料理なんて見たことないもんな。真っ赤や真っ黒や真っ白はあっても。
エジプトの吉野屋と言えなくもないコシャリも食べる。3エジプトポンド。ご飯の上に細パスタやマカロニ、その上にトマトソースやヒヨコ豆。つまり炭水化物のオンパレード。言葉で説明されてもあの独特の存在感は分かってもらえまい。ホテルに持ち帰って食べたら、なんだか自室で牛丼を食べているうら寂しさをちょっぴり感じてしまった。
12月28日 私としてはテーベ
エジプト南部の陸路移動は外国人には許されていないこともあったり、許されても警官同行だったりで、政府は空路での移動を推奨しているらしい。列車もあるけれど、降りられない駅があるんだとか。イスラム原理主義によるテロなどがまだ可能性としてはあって、その警戒という。1997年11月にルクソールで銃撃事件があって日本人10人を含む外国人観光客67人が殺された。そのルクソールに陸路で向かう。
いろんなホテルなどからバス、マイクロバス、乗用車、四輪駆動車、タクシーなどに乗った観光客が、前後を警備車両に守られて集団となって爆走する。草食動物が肉食動物から身を守るのと同じ。狙いをつけにくくするのだろう。その1つのワゴン車の中で私はしかし、ナイルに沿って下る道端の風景をずっと見ていた。圧倒的にロバが多い。ときおり馬。もっとめずらしく牛。イスラムなので基本的にブタはいない。羊もあまり見ない。道端にいるのはロバ、ロバ、ロバ。憂いを含んだ目でうつむき加減に荷車を引いたり人間を乗せたり。頑張れ、ロバくんと声援を送りたくなる。
途上、道程の3分の1に当たる付近でコム・オンボの遺跡、3分の2に当たるところでエドフの遺跡を見る。ま、ある意味見慣れてきたというか、「おおっ」という大きな感動はない。「へぇ〜」ぐらいのもの。
計4時間ほどかけてルクソール着。しかし私にとっては中王国から新王国にかけて主として栄えた「テーベ」といった方がしっくりくる。しかしアラビア語ではもっとなじみの薄い「ロッソル」なんだとか。
駅前のレストランで食事。名は分からぬがひき肉とタマネギなどをトマトベースで煮込んだ料理が口に合う。同じく駅前にある「Twinky」という有名な菓子店にも。ドアを開けた瞬間、甘すぎる匂いが襲う。すべて量り売り。
7時15分から、市内のカルナック大神殿の「音と光のショー」へ。しかし寒い。待たされる。暗がりの中を走らねばならない。「歩き方」にはいい評価しか書いてないが、歩き方に書いてあるような歴史だとか背景だとかをディズニーランドのアトラクションよろしく紹介するだけ。しかも一通り行くと2時間。脱落も途中でやめることもかなわず、トイレもないに等しい。これに33エジプトポンドを費やすのかどうかは、しっかり考えたほうがいい。私の周りの評価は「行かないほうが良かった」だった。疲れ切った。
12月29日 羊頭狗肉、もしくは蛇尾竜頭
市街地とはナイルをはさんで対岸、西岸にある王家の谷へ。車で30分。なぜか途中でトロッコに乗り換えて谷に入っていく。3つの墓に入れるチケットが20エジプトポンド。ツタンカーメンだけは別料金で40ポンド。迷ったがここまで来たら入るしかない。しかしあまりお勧めはしない。私も自己満足だけで入ったようなものだから。
そのほかには新王国時代18、19、20王朝の墓をそれぞれ回る。墓の内部は建造途中だったり、ほとんど装飾がなかったりで、「こんなところに王を埋葬していいんかいな」というのもあり。なぜか他人の墓を流用したり横取りしたりしたのもあって、いったいどこまでまじめに造っていたのか。
少し戻ったところに、97年の事件があったハトシェプスト女王葬祭殿。ここでも少し手前からトロッコ。なんでやねん。遠目にはきれいで見栄えのする遺跡。しかし近くに行くとこう、きれに修復されすぎていて、あまり面白くない。さらに戻ると道端にいきなりメムノンの巨像。これも写真を撮ればはいおしまい。
昼食後、東岸側にあるカルナック大神殿へ。昨夜のショーの舞台。見所は大列柱とオベリスク。列柱の一番目立つところには必ずラムセス2世のカルトゥーシュ。そう、あの史上最高の自己顕示欲男。
続いてルクソール神殿。ここにはアレクサンダー大王の部屋なんかもあり、また小規模だから見やすかったけれど、すでに体力は尽きかけていた。
うーん、期待した割にはルクソール、いまいち。あまりにも観光地化されている割には観光客に優しくないぞ、全体的に。日本はもっとそうだけど。
12月30日 おばちゃんのいない市場
4時半起床で朝早くの便でカイロへ。ホテルをチェックアウトするときに食べてもいない料理が部屋にチャージされていてそれを訂正させるのに一悶着。しかし、英語でけんかできるだけの度胸は2年のNY生活でついている。20分かかって訂正。こっちは空港に急いでいるのに。カイロまでは1時間弱。空港を出て歩いていたら電灯のポールにぶつかってしまった。まだ寝てるのか。
ピンク色の外装が不似合いな考古学博物館へ。入場料は20エジプトポンド。しかし観光客で大混雑。人込みをかき分けて中へ。2階の奥にあのツタンカーメンの黄金マスク。これまた89年、大英博物館を訪問した時にこれがエジプトにあると聞いて見たいと思ってから14年目。純金製のマスクはやはり神々しい。写真ではあえて見ることの少ない裏面を。
ツタンカーメン関係は割といいが、それ以外の展示品は最悪。いや、展示品そのものではなく、展示方法が。そこらへんにほったらかしのものが多く、説明書きがまったくないものもたくさんある。せめていつの時代か、だれのものか、どこで出土したかぐらい書けるだろうに。ただ単に置かれても価値がまったく分からない。これだけ観光客が金を落としているのだから、何とかしてほしい。
イスラーム地区にあるシタデル、その中にそびえるガーミア・ムハンマド・アリという大きなモスクへ。このテラスからは天気がいいとピラミッドが見えるらしいがこの日は残念ながら霞の向こう。モスクなのだが、教会内の雰囲気と似ていなくもない。
オールドカイロに回って、原始キリスト教の特徴を残しているというコプト教の寺院やシナゴーグなどを見て回る。迫害された時期もあったとかで、地下道や抜け道、細い路地などが入り組んでいる。ひんやりした路地は歩き回って疲れた身体を休めるにはいい場所だった。
土産物しか売っていないスーク(市場)はもう見飽きたので、庶民のスークへ。観光客はだれもいない。街の人が興味津々でこちらを見る。アジア人は珍しいのか。貴金属店が多いスークだったが、路上ではティラピアやナマズなどを売っている魚屋、肉屋、そして名物料理の材料にされてしまうハト屋(写真左)も。こういう生活の断面を見られる方が私にはおもしろい。
それにしてもスークなのに女性が少ない。カイロ在住の知人によると女性用の下着売りも男性なのだとか。このスークに来て初めて全身真っ黒の服装で目だけを出している女性を見た。つまり女性は人目に触れないのだというイスラムの教えが、最も世俗化しているというエジプトでもまだ根強いということか。市場には元気なおばちゃんがいるのが常識だと思っていた。アジアでは言うに及ばず、キューバでもペルーでも、ヨーロッパでも同じだ。しかしここにそれを裏切る現実がある。これこそ旅の醍醐味。モスクや古代エジプトの遺跡よりももっとショッキングだった。
12月31日 再びの裏切り
朝早く、カイロ郊外のギザへ。ここで見るのは当然、ピラミッド。これまで見てきた遺跡はどれも中王国から新王国にかけてのもの。しかしピラミッドは古王国(5000年ほど前)のもの。これを見ずしてエジプトを語れない。
ピラミッドへの入場には関門がいくつもある。まず8時の開門前にゲートに並ばなければならない。観光バスよりも前に並ぶことが望ましい。時間にルーズなお国柄には珍しくほぼ8時にゲートが開く。すると車やバスが猛然とレースを始める。まず遺跡への入場券を20エジプトポンドで確保し、その先にあるクフ王のピラミッド入場券を買いにまた車でレース。そしてダッシュで並ぶ。40エジプトポンド。行列では、横入りしようとする有象無象とそれを許さないという列の中の人とが殺気立っており、けれども窓口の係員はゆっくりした風情。
どうしてこんなレースをするかというと、クフ王のピラミッドには午前150人、午後150人という入場制限があるため。大型バス3台が来れば終わってしまうような割り当て。でもどう見てもそれ以上売っている。毎朝毎朝、こんな消耗戦をさせられる観光客はたまったものではない。ピラミッド内部は狭く多人数は物理的に無理だろうし、遺跡保護のためというのもあるのだろうけど、何とも馬鹿げたシステムだ。すべて予約制にでもすればいいじゃないか。
気分を取り直してまず3つのピラミッドがきれいに見えるパノラマと呼ばれる場所へ(写真)。朝一番なのでまだ土産物屋も開店準備中。シートの上に品物を並べているところ。そこから徒歩でピラミッドへ歩いていく。まず一番小さなメンカウラー王のピラミッドから。修復中で入れないというガイドブックもあったが、もう大丈夫なよう。しかしカメラの持ち込みは不可。私は入り口で押し問答になった。「ガイドに預けろ」「一人で来た」「ではその辺の観光客に頼め」「それでなくなったらおまえが責任とるのか」「じゃ入るな」「ではチケットを払い戻せ」「できない」「なら入れろ」云々。何とかチケットのもぎりのおばさんにカメラを預かってもらい中へ。地下に下る狭い通路。内部は装飾もなく、単なる穴蔵。
真ん中、帽子をかぶったように見えるカフラー王のピラミッドは、見た目では一番高く見える。高台にあるから。しかしこれはメンカウラーと同じだろうしまあいいと考えて中に入るのはパス。
そしていよいよクフ王。これはやっぱり入るだけの価値はある。特に大回廊はいい。これだけ巨大な石造建築の中に、こういう緻密な空間があるのはやっぱりすごい。玄室はまったく大したことがない。ただ、玄室の石組みはインカの石組みと同じく、かなり精度が高い。これはここまで見てきた遺跡とはまったく違う。なるほど人気があるわけだ。
これまでの遺跡の経験から、ピラミッドも大したことはなかろうと思っていたのだが、やっぱりこれは見るべき。特にクフは見ないと。自分の中の「常識」がまた崩れていく音がした。
その余韻を引きずって「太陽の船博物館」とスフィンクスも見る。ピラミッドの向こうはすぐ市街地。これだけ市街地の近くに、これだけ街とは異質な巨大な建造物がある違和感。砂漠のど真ん中にあった方がまだしっくりいくと思う。スフィンクスはこれもイメージと異なり、くぼ地にある。だからピラミッドを見ている時にはスフィンクスが見えない。くぼ地にあるから、何だか巨大感もない。風化も激しいし。やっぱりピラミッドだよなと、遺跡群を去りながら思う。
午後以降は土産物を回る。ただ欲しいものがあまりない。せっかく頼もうと思ったものはサイズがなかったり、慎重に選ぶ時間がなかったり、押し売りの態度が気にくわなかったり。まあ無理して買わんでもいいがな。
午後3時にカイロに留学で来ている後輩と会い、もう1人の私のカイロの知り合いと引き合わせる。元気そうだ。小春日和なのに「寒い、寒い」といっているのはすっかりエジプト人だ。タクシーの値段交渉もアラビア語で堂々としている。2年前、NYで会った時はまだ頼りなかったけれど、この2年でかなり成長したことが分かる。きっとカイロに来てからぐんと伸びたのだろう。今後の健康と健闘を祈る。
これまで食べていなかったハト料理を夕食でいただく。思ったより油っぽいが、不快ではない。肉としては食べる部分が少なく、中に詰めたご飯を食べるのがメイン。あのハトを食べているという違和感はまったくないし、平気で食べている私。モロヘイヤのスープもとろろみたいでおいしい。こうやって何でもおいしく食べられる私は、「食べられないもの無し」の連勝記録を伸ばし続けている。エジプトに来ても。
CNNやBBCでずっとやっているイランの地震が気にかかる。
1月1日 2004年になったらしい
午前中は荷造りなどして、正午には市内を出る。15時15分発のアリタリア航空897便でローマへ。少し送れて出発したので少し遅れて到着。しかしそこからの席は「pre-fixed」だとかで、ローマでも座席を変更できないシステムに不条理を感じる。団体さんでも購入順になっていて、たとえば新婚旅行らしい夫婦でも座席が離れているということもあった。まったく乗客のことを考えていないシステム。こんなんではいけませんな。
ローマからはJALとの共同運行便でアリタリア8877便もしくはJAL400便。機材や乗務員はJAL。機内でお屠蘇が出てきたのはJALらしい。うまくはなかったけど、雰囲気、雰囲気。しかしシートが狭く、行動の自由が無いのはつらい。ローマを20時45分発の予定だったがこれまた少し遅れて出発。周りはみんな日本人。当然か。これまた12時間。ふう。
1月2日 ご苦労さん
成田には午後5時頃着。移動ばかりの一日。機内でもあまり眠れずフォアグラ状態だったし、内側の席で通路側でもなかったので苦しくて仕方ない。それから解放されただけでもうれしい。体調も万全。何とか無事に帰ってきた。ちなみに帰宅して3日の昼まで12時間ほど寝続けた。そりゃまあね。
参考までに。「地球の歩き方」エジプト編は、チベット編に次いで最悪の出来。日本にいるときから、個人の名前の入った写真がたくさん載っているのが不思議で仕方なかった。おそらく投稿ものだろうが、そんな方針は他の国用のものではなかったはず。他人の記念写真を金を払ってなぜ見ないといけないのか。それに地図も不親切なものばかり。ついでに言うと、アラビア語の会話集も使えない。現地の発音と違うからだ。何を基に書いているのか。現地調査しているというのがウリではないのか。たとえば「thank you」に当たる言葉は「シュクラン」と書いてあるが、耳で聞いたらどちらかと言うと「ショクラ」に近い。「good bye」は「マアッサラーマ」と書いてあるが、同じく「マ・サラーム」と聞こえる。別のガイドも同じようなもの。実際にアラビア語を知らない旅行者が個人で旅行することを考えていない作りだとしか思えない。当初のコンセプトはどこへやら、単なるお手軽ガイドブックに成り下がったか。蛇足ながら、中国編もひどかった。
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