建物の真ん中を吹き抜けが貫いていて、そこにまだクリスマスツリーがあった(写真)。床は天然大理石張り。ツリーの向こう側にはレストランがあり、食事時にはミュージシャンが演奏する。それはキューバ音楽だったり、クラシックだったり。ヴァイオリン1人の時もあれば、ギター&パーカッション&ギロのトリオだったり。客は食事に夢中であまり音楽を聴かないのだが、それでも仕事とばかりに次々と演奏する。ただやはりそこに音楽のvibrationは感じない。BGMであろうとし、それを求められる音楽が淡々と流れる。職人業ではあるけれど、わざわざtipを回収に回られてしまうと、小額でも出すのがなぜかためらわれる。
新装の4つ星ホテルにふさわしく、部屋の中には何でもそろっている。私の部屋は最上階の角部屋だった。部屋の床は茶色系のタイルが敷き詰められていて、基本的に暑い国に来たんだと分かる。ベッドメイクもこっていて、バスタオルの織り方が毎日違っていた。
ただ防音は最低で、外の音がダイレクトに入ってくる。夜中に何度も、窓が開いているんじゃないかと確かめたほど。しかもキューバの人たちは夜更かしさん。さらに音楽好きときて、真夜中でもステレオで音楽を大音量で流す。みんな窓は開け放しているから、その音が私の部屋に侵入してくる。
さらには年代物の車が排気ガスと珍走族なみの爆音をまき散らしながら夜更けの通りを走っていく。それに酔っ払い観光客の嬌声が混じる。部屋は快適なのだけれど、目を閉じていると道端で寝ているような錯覚に陥る。
旅行者の代理人として若い男性が朝、バウチャーを届けにホテルに来た。しかしその英語によどみがない。いくら観光客相手の仕事をしているからといっても滑らかすぎる。しかも聞き覚えがある英語のニュアンスだ。
「君はキューバ人?」「いや、アメリカ人だ。今、キューバでスペイン語を習っている」
あの法律があるんじゃないのかと言ったら、そりゃそうだけども、その法律を無視して来ているという。そりゃアメリカ人観光客がいて、その人たち対象のLonely Planetが普通に売られているんだからアメリカ人がキューバに住み着いていても何の不思議はない。彼は2003年5月に一時帰国する予定だけれども、その際に入管でトラブルにならなければ何の問題もないという。トラブルがないことを祈るとも言っていた。さらに彼の祖父はコロンビア大のすぐそばに住んでいて、彼の兄弟も通っていると言っていた。彼の英語はニューヨークの英語だった。昨日のトラブルで疲れた身には、聞き慣れたコトバは、それがたとえ英語でもかなりほっとするものだった。
街へ出てみる。
文豪ヘミングウェイが来たことがあるということで観光名所になっているバーの手前の道端に、大きな葉巻をくわえてふかしているおばあさんがいた。眼鏡の奥の目がとろんとしている。「Puedo tomar una foto?」(Can I take a picture?)と尋ねたら、ゆっくりと右手の人さし指を上に突き出した。私は構えたカメラをゆっくりと下ろした。モデルになることで金を稼いでいるらしい。しかし、それで稼ぐためには絶えず葉巻を吸っていないといけない。健康を犠牲にして1ドルを稼ぐおばあさん。見合うのか。それは本人しか知らない。
Plaza de la Catedralにはキューバの音楽Sonを歌っている楽団がいた。楽しげだ。「グワンタナメ〜〜ラ〜〜、ガジラ、グワンタナメ〜〜ラ〜〜」。Jose Martiが書いた詩が歌詞の一部になっているというSonの代表曲Guajira Guantanameraだ。写真を撮ろうとしたらギロをギコギコすってリズムを取りながら歌っていた男性がゆっくりと小箱を差し出した。私は後ずさりしながらそのまま路地へ入っていった。
さっき会ったアメリカ人が口にしていたObispo通りに行ってみる。なるほど人通りが多い。旧市街に近いところは観光客とそれを相手にした土産物、レストラン、バーなどが多いけれど、Centroに近づくにつれて地元の人対象の店も多くなってくる。車は通らないのでちょっとした原宿状態だ。しかし目的もなく歩いているので、あっちの店を冷やかし、こっちの店を冷やかしするだけ。
そういや大晦日だ。あすが革命記念日だから、カストロが革命広場かテレビかで演説する様子が見られるかもしれない。今夜は花火でもどどーんと打ち上げて、革命記念日前夜を祝うだろう。そんな期待を持ってホテルの人に聞いてみる。「なんにもないよ」。無情のお答え。Plaza de la Catedralで簡単なショーをやるぐらいだという。そういえばさっき通ったときに舞台を設営していたっけ。ま、音楽の国に来たんだし、夜通し音楽を聴きながら新年を迎えるというのもいいだろう。そう思い直して近くのスーパーでキューバの酒、ラム酒(Ron)の小ボトルを買う。部屋に戻ってテレビをつけたらニュースをやっていてカストロが映っている。えらく早いなと思ったら、カストロはブラジルを公式訪問中とのこと。ブラジルの新大統領に会っている映像だった。っつうことは、革命広場での演説もなし、と。
頃合いを見計らって再び広場に行く。しかし広場に入る道はすべてブロックされている。なんだなんだ。聞いてみたら、あの舞台は広場で開かれるディナーショーのためのもので、その席を予約購入した人でないと広場にすら入れないらしい。その席1人前100ドルなり。あほくさ。でも少し離れると、普通のレストランからいつも通りSonの演奏が聞こえる。Ronの瓶をぶらぶら持ちながら、でも新年をこれで迎えるのもなあと思う。そうだ、部屋に戻ってCNNをつけて、NYのTimes Squareのカウントダウンを見よう。部屋に帰ってテレビをつけたら寝てしまった。ふっと起きたらもうとっぷりと新年。
こうして私の新年は何の区切りもなく、何のドラマもなく、何の感動もなく始まったのであった。
キューバ小史
キューバには元々、Tainoと呼ばれる民族が住んでいたとされる。1492年、意欲に燃えるコロンブスがキューバを「発見」。それ以降はしばらくスペインの統治が続く。現在の公用語スペイン語や主流宗教のカトリックはこの時代の影響。産業革命に成功したイギリスがスペインに代わって世界の覇権を握り始めた1700年代後半、キューバを一時期押さえたこともあったが、長続きはしなかった。
19世紀は砂糖ブームでキューバが活気づいた。その労働力として導入された奴隷の貿易も盛んになった。前世紀後半に独立を果たしたアメリカが、それを見逃すはずもなく、19世紀中盤に2度、スペインからキューバを買い取る交渉をしているが両度とも失敗。このころ、キューバで生産された砂糖の大部分はアメリカ向けに輸出されていた。19世紀後半にはキューバの独立の機運も高まり、1868年と1895年に独立戦争が起きている。この2回の戦争で理念的精神的支柱となったのがJose Martiだった。作家、ジャーナリスト、そして革命家でもあるMartiの肖像はハバナの至る所にある。少しはげ上がり、少し神経質そうな顔。キューバを追われてからはニューヨークで長く暮らしていた。そして彼は第2次独立戦争で戦死する。
独立しようとするキューバとそれを防ごうとするスペイン、そして虎視眈々とキューバでの利権を狙うアメリカ。そして1898年、米西戦争が起きる。その発端は、ハバナ沖でのアメリカ戦艦Maineの「謎の爆発」。これをスペインの仕業とするアメリカと、アメリカ側の事故だとするスペイン。まるで数十年後の蘆溝橋事件を見るようだ。結局、この戦争はアメリカが勝ち、キューバは1902年、ともあれ独立を果たす。しかしその政権はアメリカにおもねり、腐敗していたため、キューバの社会は一層、不安定化する。
このアメリカの影響下で作られたのがVedadoの街だった。元々、森に覆われて伐採を禁じられていた地域だったが、この森をばっさばっさとなぎ倒して、林立するビル、カジノ、そしてギャングや金持ちの住まいが造られていった。当然、キューバ社会からはこうした政権に対する不満が大きくなり、1933年、バチスタが軍事クーデターを起こして政権を掌握。選挙の票を操作したり反対分子をパージしたりして彼は自分の地位を保持するとともに、それを支えるアメリカ寄り、金持ち寄りの政策をさらに推進する。
1953年、カストロら反体制派が武装蜂起をキューバ西部で起こし、軍の兵舎を襲うが失敗。辛うじて逃れたカストロらが以後、ゲリラ活動を行う。しかしカストロはつかまり、島流しに遭う。そこからメキシコに逃れたカストロは1956年、同志とともに計81人でクルーザー「Granma」号でキューバに再上陸。その中にはチェ・ゲバラがいた。彼らが起こしたこの時のゲリラ活動は成功し、東から西へ、ハバナに向けて着々と勢力範囲を広げた。そして1959年元旦、バチスタは国外脱出。この日がキューバの革命記念日となっている。
この年の4月、カストロはワシントンD.C.を訪れ、アメリカに支援を要請。しかし時の大統領アイゼンハウワーは「ゴルフのため」と称して会わず、副大統領ニクソンがホワイトハウスでカストロと面談。しかし会談は物別れに終わる。キューバに帰ったカストロは土地改革、経済改革などを行う。土地改革の一環として、アメリカの資本家が持っていたサトウキビ大農園などを接収して小作農に開放。経済改革の一環としてアメリカのメジャー、テキサコやスタンダード・オイル、シェルなどがキューバに持っていた石油精製施設も国営化された。これでアメリカは態度をさらに硬化。アメリカからの支援を断られたキューバは、冷戦の世界の中で代わりにソ連に接近。ソ連は積極的に支援した。のど元でのソ連勢力の伸長を懸念したアメリカは、1961年、ケネディ政権のもと、CIAによってニカラグアで訓練された反革命キューバ人たちをキューバに送り込みクーデターを試みるも、あっけなく失敗。これがBay of Pigs事件と呼ばれることになる。この事件が安全保障に対するキューバの不安をさらに悪化させ、ソ連製ミサイル設置への動きに結びつく。これを海上封鎖で防ごうとしたアメリカと、キューバを支援しようとしたソ連との間で緊張が高まり、翌1962年の「10月危機」こと「キューバ危機」につながる。
ケネディはソ連書記長フルシチョフに「キューバを攻撃しない」との内約を秘密裏に与え、フルシチョフがミサイル搬入を中止したことで、キューバ危機、つまり多くの人が「核兵器による人類滅亡に世界が最も近づいた瞬間」が辛うじて回避された。(以上、Lonely Planetの記述を参考にした)
Jose Martiが長く暮らしたニューヨークに現在住み、彼と同じような職業をし、フルシチョフの孫娘の授業を受けていた私。こじつければいくらでもキューバとのつながりがあることを「発見」。
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