私はといえば、ふとコーヒーが飲みたくなって、ネスカフェではない、本物のフィルターを使って淹れているという店に行ってみる。そう、ここにはスターバックスなどないし、あったとしても粉コーヒー、通称ネスカフェが幅を利かせているのだ。目の前に運ばれたアイスコーヒーをごくり。ヲヲ、うんまい。甘いミルクティー、チヤもおいしいけど、やっぱりコーヒーを飲まないとしゃきっとしない。ネパールに来てすでに2週間。おお、そう、もう2週間。一口もコーヒーを飲んでいなかった。コーヒー中毒の私としては考えられないこと。これで少しエネルギーをチャージ。
Thamelを歩いていると「コンニチハ」「トモダチ」「シャチョウサン」と声をかけてられてうるさいので、日本語が分からないふりをするのが一番楽だ。いちいち「コンニチハ」に反応していたら身が持たない。
かなり歩き疲れたけど、これぐらい歩いてちょうどいい感じ。毎日テンプーで家とオフィスの往復だけでは体がおかしくなる。バンコクでもサイゴンでも徒歩で歩き回った私。やっとカトマンズの皮膚感覚もできてきた。土地勘というか、距離感というか。それが自分の中にできないとその街にいる感じがどうしてもしない。そういう旅行スタイルなんだから仕方ない。
きょうのネパール語
ウタ = あっち
6月28日 国王のお通りだい
きょうはまた官庁ならびに学校が休み。理由は「国王がインドから帰ってくるから」。先日、「国王がインドに行くから」でも休んだんだって。説明してくれたThakurも、「官僚は何かと理由をつけて休みたがる」と苦笑していた。行くときと帰るとき、その両方が休日なので、中にはその間もすべて休んでしまう強者もいるとか。しかし国連系は関係なし。きょうもまた仕事をするのであった。
月曜日にPokharaの先にある県Baglungに行くことになっている。Thakurの前任地だ。そのための書類がまた大変だ。国連では治安の危険度に応じて、国内の75県をカテゴリーIからIIIまでに分けている。Iは「行ってよし」、IIは「う〜ん、まあ気をつけて」、IIIは「かなりやばい」「行ったらあかん」という分類。今回行くところは真ん中のIIに当たるので、そのための書類を提出しないといけない。それも2種類。こういう煩雑なところはどんな組織でも変わらない。ま、何かあったときのために組織を守るためのものだから仕方ない。「無理に行かせたわけじゃない、彼が行きたいといって行ったんだ」という証明だ。
とはいっても、現在「I」のカテゴリーはカトマンズだけ。結局、どこに行くにも書類を出すことになる。国連が「壮大な無駄」「肥大化した官僚組織」「非効率の見本市」と言われる由縁だ。
帰途、Thakurの運転するバイクの後ろに乗り、風を切りながら走る。テンプーから見る風景とはまったく違う風景。風の楽しさをしばらく忘れていた。そういえばバイクを売ってからもう何年になるんだ。Thakurに街中へ連れていってもらって、Pokhara行きのバスを予約。チケットを買ってきた。
帰ろうとすると、道の両側に柔道着のようなものを来た少年たち、銃剣を持った兵士、警察官がたくさん並んでいる。一般の人もたくさん集まっている。しばらく考えてやっと分かった。国王が王宮に帰ってくるのを待っているのだ。ちょうど家の近くまで来てそろそろの感じだったので、Thakurとしばらく待ってみる。いつもはテンプーやバイク、バスやタクシーで煙たくうるさい道なのに、何も通らない。厳粛というよりちょっと面白かった。この辺りの人がすべて集結したのかと思うぐらい、人垣が両側にできる。道路には横断幕が掲げられ、ネパールの国旗の小旗を持った少女たちもいる。女性は少しおしゃれをしている。6時半ごろ、パトカーや白バイに先導されて国王夫妻の乗ったベンツのリムジンがかなりのスピードで駆け抜けて行った。何の愛嬌もない。顔は正面に向けたまま、太った中年男女2人が後部座席に座っていた。もうちょっと国民に親しくしてもいいんじゃないのか。
沿道の人も、数はかなり多いのに歓声を上げることも手を振ることも、小旗を振ることさえなかった。あのスピードで走られたらなあ。人々の雰囲気も国王を出迎えているというより、まあ夕涼みがてらに珍しいものを見に来たという感じ。ちょうど1年ほど前に即位した時には、悪い噂しかなかった人物。国民もそれほど尊敬しているわけではなさそうだ。タイの王室の方が外面的だとしてもより敬われている感じ。国王夫妻の写真がどの家にもだいたい飾られているし。ネパールではあんまり見ない。
あの2人の顔を見たとき、その瞬間にズキンと自覚する感覚。それは自分の中にある「反権力」。単に体制が嫌いというのではなく、そこにあぐらをかいている人間が許せないのだ。権力があるならそれを社会のために生かせばいいのに、それをしないで保身や名誉にきゅうきゅうとしている人物。その他大勢の「普通の人」はおろか、困っている人、苦しんでいる人のことは何も考えない人物。君たちはいったい何のためにこの世に存在するのか。あ、そうか、私にその感覚を忘れさせないためか。「人の振り見て我が振り直せ」と言うものな。なるほど。
きょうのネパール語
タパインコ・フォト・キツナ・サクスゥ = May I take your picture?
6月27日 現場主義
家主でありREDPではEnergy Development AdviserのThakurはカトマンドゥに来る前、Baglungという県の担当者だった。今でも愛着を感じているという。現在の立場としてはプロジェクト対象の県すべてを公平に見るようにしているが、しかしBaglungのことが一番気にかかるし、何か進展があれば一番うれしいという。
出張で訪れることがあっても、県の組織は度外視してまず村々を回って、困ったことはないか、何か提案できることはないかを聞いて回るという。「これまで電気のなかった村に、村人の総意としてプロジェクトを提案し、村人が自らそれを導入し、成果が上がるのを見るのは一種の『アート』だ」という言葉が印象的だった。
私の仕事もそう。冷房の効いた部屋にこもって書類を作ったり駆け引きをしたり政策提言をしたりするのは性に合わない。むしろ汗まみれ、泥まみれになって「現場」のにおい、音、景色、表情を見るのが好きだ。それができるからこそこの職業についたとも言える。
その意味で、カトマンドゥの本部でPCに向かっているのは本来の姿ではない。歩いて3時間かかろうが、村に行って村人の話が聞きたい。すべてはそこからしか始まらない。アクションを起こさないで成果を求めるのは知的遊戯以外の何ものでもない。高等そうに見えるけど実体はない。地に足のついた考え方、物の見方をするためには、ぜひとも村へ。貧しいと言われている村へ。ドル建てでは確かに貧しいかもしれないけど、それと心の豊かさとは違うはず。それを確かめたい。
きょうのネパール語
オー = yes(何度もこれを言われると吠えられているように感じてしまう)
6月26日 ようやく決定、ようやくコネクト
午後のミーティングで、ようやく私のするべき仕事が決まった。自分で志願したレポート以外に、Communication Officerとして、季刊の小冊子(今月発刊分)にREDPについての簡単な印象を書くこと、次回刊行分の冒頭の記事を書くこと、そしてAnnual Reportに記事を書くこと。以上が最低限の仕事と判明。こうして明確になると自分の時間の割り振りも明確になるし、目標ができるから毎日の張り合いもあるというもの。
それに加えて、空いていた部屋を占領することにも成功。windowsだけどPCを占有できるし電話もある。図書室の一角みたいなところとは大違い。1階なのでやや涼しいし。これまでいた3階は2階以下に比べて明らかに温度が高かったから。ただ廊下に面しているので居眠りはできそうにない。ま、する暇があるのかどうかも分からんけど。
夕方、なんとかネット接続ができるようになった。33.6kbpsと一世代前のスピードしか出ないけど、何よりサイトの更新ができる。それが一番。仕事の割り振りといいネット接続といい、こうしたことは本来なら先週中にできていないとおかしいのだと思うけども、これもここのテンポ。あまりカリカリせず、郷に入れば郷に従え。のんびりやりましょう。
これからはサイトの更新もしっかりできると思います。数少ない読者のみなさん、大変お待たせしました。また感想も聞かせて下さい。
きょうのネパール語
ハジュール = はい、もしもし(日本語の「うん」、「ほう」、「ええ」に近い。電話で「ハジュール」、ノックされて「ハジュール?」、何かを聞き漏らした時も「ハジュール?」。便利な言葉)
6月25日 something to do
しかし「何もしない1日」は1日であるからいいのであって、2日以上はいらない。
午前中にようやく出張から帰ってきたThakurと私のスケジュールについて相談。いろいろ手直しが入ったうえで、REDP代表のKiranとも打ち合わせる。そこでも種々、注文がついて、午後になってようやく最終決定した。スケジュール1つでこんなに労力がかかるとは。
夕方近くになって、Thakurの部屋で彼とKiranが激しくやりあっているのが聞こえてきた。私がスケジュールに入れていた地名がどんどん出てくる。大半はネパール語なので内容は分からない。しかし私のスケジュール案について、Kiranが「これじゃField Tripが多すぎる。彼はCommunication Officerなんだから、オフィスで刊行物を作ってもらうのが第一の仕事だ」と難癖をつけているのに対し、Thakurが「インターンとしてREDPを知ってもらうのが第一義のはず。そのためにはfieldに行ってもらうのが近道」と私を擁護してくれているように聞こえる。
力関係から言って、Kiranの意見が通ることは間違いない。そうか、山奥の村には行けないのかとブルーな気持ちになる。そんなことであと40日以上を暮らせるのだろうか。考えるだけで滅入ってくる。
帰り道、とぼとぼと歩いていたら、店という店でサッカーの韓国対ドイツの試合を見ている。商売はそっちのけ。みんなアジアの韓国を応援している。そんな騒ぎも上の空。テンプーに淡々と乗って、淡々と帰る。東京の地下鉄なみに何気なく乗っている私。
夕食時、思いきってThakurに聞く。「私について何か悪いことがあったのか」。すると「ああ、あの議論は別件」とあっさり。私の取り越し苦労だったようだ。スケジュールは何の問題もなく、最終の決裁がなされ、有効になったとのこと。小さな村を6つ回る。釈迦が生まれたルンビニにも行く。もしかしたらポカラにも。聞いたこともないような村の名前。想像もできない川の名前。来週は旅行の週。カトマンドゥから脱出だ。
きょうのネパール語
カゼ = 午後のおやつ。インスタントラーメンが人気。
6月24日 nothing to do
また1週間が始まる。しかしきょうはThakurも出張でいない。本来なら私の今後のスケジュールについて詰めるはずだったが、それもできない。インターネットをさせてもらおうと思ったら、担当の女性が嫌な顔をした。私が使っている横でずっと監視している。早く終われと言わんばかりに。
持ち場に戻ったが、かといってすることは何もない。来週から予定しているField tripに向けて行先の村のプロファイルがないか探したが、ずばりの資料はなし。資料の半分ぐらいはネパール語だから読めない。英語の資料はすでにざっと見ているし。
午後には本当にすることがなくなり、考え事ばかりしていた。きょうは停電が3回。スコールが5回。これまでは夜中に降って朝にはやむパターンが多かったが、きょうは5回も雨。本当の雨季に入ったのかもしれない。しかも5回目は帰る時間に降り始めた。「すぐやむだろう」と思っていたら案外根性があってなかなかやまない。遠くの山から次々と雲が湧いてきてカトマンドゥ盆地へ入ってくる。天気は普通、西から変わるものだと思っていたが、雲の動きは東からだったり南北だったり。渦巻いてるんかいな。
家に戻ったころには雨がやんだ。空気中の粒子は雨で流され、遠くまできれいに見える。もしやと思って屋上に出たら、案の定、北にヒマラヤの雪山が見えた。雨季で見られるのは貴重だから。薄暗い夕闇のなかに白く浮き出た稜線。そして西を見るとうろこ雲と夕陽を背負った黒い山。ぼけーっと眺めていた。
時間軸が日本ともニューヨークとも違うネパール。「何かやらないと」と追いまくられる生活をいったん棚上げして、何もしない1日があってよい。その1日は無用の1日ではなく、きっと濃密なものが流れ込んでいる1日かもしれないし、余分な澱を流し去る1日かもしれない。
きょうのネパール語
ミト = Tasty, good
6月23日 見てはいけない夢
あんな夢を見るなんて。未明から降り始めた豪雨のせいだろうか。その雨の音が潜在意識に残っていたものを引っぱり出してしまったのだろうか。夢にしてはあまりに生々しく、あまりに具体的だった。思わず起きたら午前4時。外はまだ雨が強く降っている。
トイレに行って、水も飲んでみる。しかし心は充分にかき乱され、もう寝ることなんてできない。ベッドの上をごろごろしながら、悶々とする。外ではのんきなカエルの大合唱も聞こえる。白々と明るくなってくる。しかしそんな夢を見た自分を責める。ここ2年間で初めてだった、こんなこと。しかもネパールに来てまでみるなんて。
10時ごろから市内中心部のThamel地区に行ってみる。旅行者が集まる場所。なるほど以前のヒッピー気取りのような人もちらほら見かける。土産物屋をひやかしながら、ひたすら歩く。道に迷ってもおかまいなし。その方が「歩き方」に載っていない街角にぶつかれる。Thamelとダルバール広場との間には庶民の街がある。鋪装されていないので歩くのが大変なうえ、バイクに車、テンプーにリクシャーがクラクションをけたたましく鳴らしながら走る。気が立っているので、そんなクラクションがかなり頭に響く。それでも歩く。何かを振り切るように。
Thamelではいろんな人物に会う。だれが教えたのか、「ばざ〜るでござ〜る」などと時代遅れのフレーズを吐きながら「LSD、『グルグル』もあるよ。見るだけでいいから」と言い寄ってくるネパール人の男。「私は押し売りはしません、英語の勉強がしたいだけ」と言いながら最後に「娘が病気で」と金をせびる男。にこやかに近寄って来て「日本人?私も。昼ご飯は食べた?」と明らかにおごってもらおうとする、歯をヤニだらけにしたラリった日本人。破れた服を誇らし気に着ている欧米人。「Korea!」と見当違いの声援を送ってくれる若い店員。心のゆとりがある時ならこんなバラエティを楽しむこともできるのだろうが、きょうは無理。
大通りに出て王宮前、高級ショッピング街、バスターミナル、テンプーのターミナルなどひたすら歩く。一言も発せず。休みもせず、何か冷たいものも飲みもせず。自分に課した刑罰のように。肉体をいじめれば心の健康が回復されるとでもいうかのように。
帰って来てParthらと遊ぶ。疲れているけど、可愛い顔と声で誘われたら遊ばないわけにいかない。それでも頭の隅でまだ自分を責めている。
ようやくネット接続できたようだが、まだ不安定で楽しむまでにはいかない。それでも何とか光明は見えてきた。ネパールに来て1週間、ようやく世界とつながった。それでも本格的につながるのはいつのことだろう。
きょうのネパール語
チャイナ = No
6月22日 心で泣く
Thakurの弟、Shekharと1日行動を共にする。まず彼の案内で市の西側にあるスヤンブナートへ。「歩き方」には「スワヤンブナート」とあって確かにローマ字読みをすればそう読めるけど、少なくともShekarの発音は「ワ」と「ヤ」が重なって「スヤンブナート」に聞こえた。
それはともかく。行ってはみたものの、あまり面白いものでもない。極彩色のストゥーパと金色の仏像があるのだが、あまりびっくりするようなものではないし、暑いし、汗だらだらだし、何となく乗り気ではない。頂上からはカトマンズ市内が一望できる。これは見る価値があるだろう。特に乾季ならヒマラヤも見えるはず。今は雲と霞に覆われて何も見えないけど。
頂上に出る直前、妙な歓声がすると思ったらW杯の韓国対スペイン戦を1軒の家に集まって観戦していたらしく、それがちょうど終わったところ。みんな口々に「Korea! Korea!」と言いながら家から飛び出してその辺りを走り回っていた。アジアつながりということか。韓国が勝ったことが本当にうれしいようだ。そんなことも少し心を温める。
Shekarとはいろんな話をする。彼女がいるのだけれど今、ロンドンに留学中。遠距離恋愛というやつですな。彼も一緒に留学するはずだったのだが、ヴィザが下りず、別れ別れになってしまったという。社会学のマスターを持っているのだが就職は困難で、現在、ニュージーランドで働くために申請をしているという。彼女が行ったころはまだイギリス大使館の対応も普通だったのだけれど、今は普通ではないとのこと。これまで行ったことのある外国はと聞かれたのでそのまま答えたら、本当にうらやましそうな顔をしていた。そうか、外国に行くことすらままならない人がまだたくさんいるのだった。いつの間にかそれを忘れそうになってしまっていた。いかん、いかん。
いったん家に帰ったら、Thakurの下の息子Parthが体調が悪いらしい。夕方からみんなで行くはずだったパシュパティナートはShekarと大きい方の息子Pranarと3人で行くことに。
もう日が暮れかけたころだったが、それがまた一段と雰囲気を盛り上げている。スヤンブナートよりも数倍いい。肝心のところはヒンズー教徒以外は入れないのだが、バグマティ川沿いの火葬場は見える。きょうは4つあるうちの1つで火が燃えていた。対岸の高台からしばらくそれを眺める。ここで焼かれた灰はすべて川に流され、遺族は何も残さないという。骨だけは残す日本とは考え方が違うな、やっぱり。橋の上流の2基は王族専用。昨年の王宮内の事件の後は当然、大いに使われたという。しかしここパシュパティナートでそうやって火葬されるのは金持ちだけ。中流以下には関係のない場所だそうだ。死後の後始末まで金が絡む現実もまた見せてもらった。
珍しく涼しく心地よい空気の中、存在感のある月光に照らされながら家に帰るとParthは別人のように元気になっている。遅い夕食をとっていると奥さんのPratimaがぽつりと言う。「Parthが、あなたは兄弟ではないのが嫌だと言って泣くの」。いきなりだったので言葉が見つからず何の反応もできなかったが、心の中で泣いていた。子どもに慕われるのを特技にしてきたが、こんなことを言われたのは初めてだった。人種や国や宗教や考え方や生活習慣や食べ物が違うからといって、何の障害になるのか。Parthが元気になってよかった。また一緒に遊んでね。
きょうのネパール語
ティク・ツァ = O.K.
6月21日 国連であるがゆえの制約
求められていた2か月分のスケジュールを作成する。60日ぐらいあるのに、「Day by dayで」作れと言われ、かなり苦心する。field workにしたって、勝手にいろんな地名をピックアップするが、そのたびに「ここに行くには歩いて片道1日(!)かかる」と言われたり、「ここに行って帰ってくるのは1週間かかる」などと言われたり。結局、Kathmandu付近でしか動けないのが明らかになってきた。
ネパールと言えばヒマラヤの山間部で電気もないようなところで過ごすという生活をイメージしていたが、大幅に修正しないといけないようだ。UNDPをはじめ国連の関係機関は慎重すぎると言えるほど慎重な態度を取っているので、少しでも危険性のあるところへはたとえネパール人のスタッフでも入れないという。いわんや外国人のインターンをや。
私に課せられた仕事は、REDPのAnnual Reportや隔月刊のニュースレターの作成だが、ここでもマゾっ気を出してしまい、「自分なりのレポートも作成する」と宣言してしまった。なぜわざわざそうやって自分をしんどい位置に押しやるのか自分でも不思議だが、言ってしまった以上、やらずに帰れるわけもないし、中途半端なものを提出すれば物笑いの種になることも確実。こんなとき、媚びずしかし対立せずいいレポートを書くのは、ニューヨーク・タイムスを世界最高の新聞だと思い込んでいるコロンビアのジャーナリズム・スクールの教授に対して「そんなことないやんか」と主張する時の緊張感に似ている。
きょうはEnergy AdvisorのMr. Satish Gautamとネパールの開発問題についてかなり突っ込んだ議論をした。彼はあるアメリカの大学院からAdmissionをもらっているものの、駐ネパールのアメリカ大使館がヴィザを出すかどうか分からないので、留学できるかどうかも分からないという。Admissionが出ていながらヴィザが出ないなんてことがあるのかと聞いたら、残念ながらたくさんあるという。留学したネパール人の多くが学業半ばで挫折し、不法滞在者となって働くことが多いからだそうだ。そんな話をしながら、急接近したのを感じる。
ちょうど昼休み時間、W杯イングランド対ブラジルの試合が中継されていたのでみんなで観戦。仕事中にこんなことをしていいのか分からないが、全員見ているんだからいいんだろう。前半が1対1で終わったところで私は自主的に自分の持ち場に戻る。
宿泊先のThakurの家に戻ってからもThakurとfield workについて相談する。しかし話せば話すほど選択肢は狭まり、結局「超」安全な場所、しかも交通至便の村にしか行けない。一種、公的身分であるがゆえに安全は保証されているが、しかし面白みはかなりそがれる感じ。ま、生きて帰るのが目的だからそれで充分なのだろうけど、欲張りな私はそれだけでは満足できない気持ちがあるのも確か。
帰りのテンプーの中で、頭が回らず、ぼーっと外を眺めている私がいた。
きょうのネパール語
サッチェ・ホ? = Really?
6月20日 夕闇のパタン
2001年6月1日、王宮内で殺人事件発生。当時の国王ビレンドラらがディペンドラ皇太子によって射殺されたというもの。皇太子も自殺を図り、4日に死亡。難を逃れた国王の弟ギャネンドラが即位した。亡くなったビレンドラ元国王らの命日がなぜかきょうらしい。おそらく太陰暦で考えているのだろう。そのために官公庁や学校は休み。しかし国連関係はまったく関係ないらしい。休日のためか、行きのテンプーもがらがら。道路も心なしすいている。仕事をしていても雑音があまり感じられない。こういう静かでゆったりした環境の方がいいな。
あすには自分の2か月間のスケジュールを出さないとだめなので、それを頭の隅で考えながら資料を読む。しかしきょうもやはり暑い。部屋にある扇風機が壊れているので、自然の風に頼るしかないが、きょうは日ざしも強く、風も弱い。扇風機のある部屋に行って涼むこと数回。
仕事が終わってからは初めての単独行動。このままではメールが何ともならないので、近くのパタンの市街地に出かける。迷路のような道。道端で口を開けて腹を見せて寝転がる犬。食事の支度をする主婦。木彫の窓枠。狭い石畳の道。けたたましいクラクションを鳴らしながらそこを走り抜けるテンプーとバイク。広場に出る。茶色の寺院が軒を列ねる。ちょうど夕暮れ時でもあり、夕陽が寺院の茶色をさらに赤く見せる。陰影の世界。何だか夢の中にいるようだ。
ゆっくりしたかったがそうはいかない。網膜にその映像を焼きつけて、日本語の使えるインターネット・カフェへ駆け込む。普通の民家の2階。狭い階段、低い天井。それでも日本語ばっちり。ネパールに来て5日目、やっとメールをチェックできた。それでもサイトの内容は更新できず。またせっかくかついできた自分のPCを接続することもできず。まだ苦労は続きそうだ。
そこから裏道を通って宿泊先を目指す。どんどん暗くなってくる。街灯なんかはほとんどないところだから、暗くなったらちょっとやばい。汗をだらだらかきながら、40分ほどかかって到着。テンプーでも30分かかるのだから、結構な早道だ。しかしもう一回歩こうとは思わない。
ネパールに来ていると行っても、住んでいるのはメイド付きのカトマンズの家。週日は仕事。つまり、何一つ「ネパールらしい」ことをしていない。この蒸し暑さ、読めないネパール語、街を行く民族衣装の女性たち。それらが辛うじてここはネパール以外のどこでもないことを知らせてくれる。
きょうのネパール語
プルチョーク・ジャンツァ? = Going to Pulchowk?
6月19日 ごあいさつ
朝一番で兄貴分に当たるUNDP(United Nations Development Programme)に行く。REDPのオフィスの近所に国連関係のオフィスが集まった建物があり、そこに向かう。警備は厳重。そして建物も豪華。クーラーもあれば、立派な個室やブースでみんな仕事をしている。UNDP/KathmanduのAssistant Resident Representative、Dr. Bhesh Dhamalaに挨拶。REDPを統括しているらしく、引き会わせてくれたREDPの長、Kiranはすっかり恐縮している。ともあれ、私のインターンについて何でも力になると言ってくれたし、ネパール国内情勢についても話を聞けた。マオイスト(毛沢東主義者)の蜂起については、海外のNGOは標的となっているが、国連関係は幸いながらまだけが人すらいないこと、しかしUNDPとしてではなく国連として最大限の注意を払っていること。それに加えてというか、それ以上に、インド・パキスタンの情勢の方が影響は大きく、現在は「いつでも脱出できるように荷物をまとめておくように」という指示が出ているらしい。そりゃ核戦争になったらマオイストどころじゃないものな。
30分ほどで会見も終わり、またオフィス3階で資料に没頭。しかしいい加減、飽きてくる。来週までに自分で自分の2か月間のスケジュールを組まないといけないということもきょうはっきりした。どんな地区があり、どんな進行状況で、何が見られて何が見られないのか、それすらも分からないというのに、どうやって組めというのか。
しかもこのオフィスでは自分でネットに接続できないことも判明。唯一ある共用のPCで、しかも仕事の時間前か時間後に使ってほしいと言われてしまう。試しに終業後に使ってみたが、当然日本語フォントが入っているわけもなく、メールの件数を見ただけで終わってしまった。その数159件。みなさん、すいません。
ということは、当然サイトの内容をアップすることもできないということ。こうして毎日、寝る前に書き続けているこのコーナーが、みなさんの目に触れるのはいつになることか。何とか方法を考えないといけない。メールの返事も出せません。こりゃ、困った。
それでも、何とか自分のしたいこと、自分が困っていることを堂々と主張できるようになっているのはアメリカ生活の副産物だろう。自分を押し殺すのが特徴と言われていた私にとって、ささやかな一歩前進ではある。
きょうも雨はなし。空の色はなんと表現したらいいのだろう。からりと青空なんてことはない。雲が次々にやってくるが、日本の夏の空のようにはっきりした雲ではない。境目のあいまいな、形もあいまいな雲がなんとなく空を覆っている。灰色までもいかない。水色なんて爽やかな色でもない。藤色をずーっと薄めて灰色を少し混ぜたような色。っていっても分からないやね。
きょうのネパール語
プギョ = enough、full(お腹いっぱいのとき)
6月18日 Tempo
昨夕に引き続き、Tempo(テンプー)という三輪タクシーに乗って御出勤。Tempoにも10人ぐらい乗れる乗り合いのものと、メーターで走る小さめの黒いやつとがあるが、私が使っているのは前者。ネパール語の発音に慣れてないせいか、Thakurが指示してくれる「どこそこで降りろ」という「どこそこ」が分からない。何度ももぐもぐと繰り返すが、街の風景を見ているうちに忘れてしまう。バスのように停留所があるわけでなく、どこでも乗れるしどこでも降りられる。それだけにどこで降りるべきか分かりづらい。しかし運転手はやはりプロで、何気なく止まって降りるように促してくれる。ちなみにオフィスがあるところはPulchowkで、Thakurの家はMin Bhawan。こうやって文字で書かれると覚えやすい。
きょうも文書を読む1日。annual report4年分と、外部の監査機関がREDPの活動を調べてレポートしたものがあったのでそれを読む。しかし略号、省略が多く、さらに不要と思われる記述も多いために、加えて、きょうは曇り空で蒸し暑かったので、なかなか読み進まない。
きょうは1日雨が降らなかった。雨季とはいえ、降らない日もあるようだ。その分、湿気になったのではないかと思えるほど蒸し暑い。風はときおり吹くけれど、一瞬涼しくなるだけで、その直後にはまた蒸し暑さが戻ってくる。
結局、監査レポートの方はぜんぶ読めずに5時半となったので、またTempoで帰る。UNDPの身分証明書を作成するために、途中で証明写真を撮る。ネパールまで来て証明写真を撮るとは思わなかった。その店の向かいでは、ある政党の大会が開かれているらしく、大勢のやじ馬が集まっていた。Thakurによると、政府寄り派と分裂派との間で、その政党の今後についての議論がなされているとのことで、やはりやじ馬も男性が多かった。
夜空を見上げても星は見えない。雨季の空。ぼんやりした月が見えるだけ。ぽつりぽつりと家の灯りが散らばっている。朝はなぜか5時45分きっかりに目が覚める。昼間はときおりうたた寝をし、正午すぎに昼食、8時過ぎに夕食。ほぼお日さまの動きに合わせて生きている。このテンポ(tempo)で2か月、生きていくのだろうな。ということできょうはTempoつながり。
きょうのネパール語
タカ = uncle
6月17日 初出勤
朝6時には起きる。もう街は動きだしている。Thakurと一緒にタクシーでREDP(Rural Energy Development Programme)のオフィスへ。カトマンズと川を1本へだてたパタンにある。パタンは大阪で言えば尼崎、東京で言えば川崎のような立場の街。しかし古都なのである。
REDPは1996年にネパール政府と国連開発計画(UNDP: United Nations Development Programme)の共同事業として発足。小規模の水力発電を手始めに、太陽発電や改良かまどなどSustainable Developmentを視野に入れた開発を住民主導の形ですることを目指している。簡単に言えば、ヒマラヤの雪解け水には困らないネパールで、村単位で発電して、生活を向上させましょうというプログラム。電気のない村に電気を通すにはこうするのが一番効率的だという。
オフィスでは、これまでメールだけでやりとりしていたMr. Kiranとも初めて対面。このオフィスの長で、かなり偉いさんだった。名前のイメージから、単なる調整役・連絡役かと思い込んでいた。
オフィスは3階建ての民家で、最上階のドキュメント・ルームに机を1つもらった。とりあえず今後のスケジュールが決まるまで、そこでドキュメントを読んで勉強してくれとのことだったので、さっそくThakurからREDPの概要の資料をもらって読み始める。
午前中はいい風も入って来てかなり進む。ネパールの人口2300万人のうち、約15%だけがKathmanduなど都市部に住み、残りは山間部などに分散している。そのため、大規模なエネルギー開発はあまり効率が良くないので、小規模の水力発電を普及させようというプロジェクト。なぜ水力発電かというと、Sustainable Developmentのためでもあるし、水車は以前から山間部の農村で使われていたこと、昼間は脱穀などに使って夜間に発電することもできること、外国の技術援助はそれほど必要無く国内で技術者などを調達できることなど、利点が多いこともある。
当然、プロジェクトを推進するために書かれた文書だから説得力があるのは当たり前だが、なぜこのことに1996年まで気付かなかったのか不思議なくらい、当たり前のプロジェクトだ。ここに日本の援助の影が見えないのも寂しい。大規模なダムを作るプロジェクトでもない限り、日本はかかわろうとはしないだろうな。名前が出て来たのはドイツ、ノルウェー、中国だけだった。
昼間は菜っ葉とダル(豆スープ)だけの簡単なダルバート(定食)。それでももうすっかりなじんでいる。濃いミルクティーが頻繁に出てくる。間違ってもコーヒーは出てこない。
昼過ぎから蒸し暑くなり始め、あっという間に雨になった。それでもシャワーというにふさわしく、それほど激しくもないし持続時間も短い。通り雨のようなもの。窓から見える建築作業員たちはその雨をなんとも思わず、家を建てている。隣の家の屋根の上にはハトが雨を避けるでもなくじっとしている。暑さをしのぐにはこれくらいの水分があった方がいいのかもしれない。
終業は5時半。Thakurの勧めで乗り合い三輪自動車テンプーに乗ってみる。三輪の軽トラックの荷台に座席を作ったもので、詰めれば10人ぐらいは乗れる。電気で走るものもある。狭いけど、何となく現地に馴染んでいる感じがしておもしろい。
万事物事はスローペースだが、アメリカと違って時間には正確だ。この点、アメリカは最低だな。Thakurの生活を見ていると、同じペースで生き、同じものを食べ、同じことを毎日繰り返す。輪廻というものが身近に感じられる。かといって退屈なわけでもなさそうだ。そんな日常の中にいきなり飛び込んで来た怪しい日本人。やっかいな夾雑物になるか、それとも変化をもたらす面白みになるのか。後者であることを祈ろう。
きょうのネパール語
ドゥ(トゥ)= milk
6月16日 おかわり!加徳満都
histo.vo宅に泊めていただいたうえ、早朝、羽田空港まで車で送っていただいた。感謝してもしきれません。無事帰れただろうか。
7時35分発ANA141便で関西空港へ。B767の定員が4分の1も埋まらないほどガラガラの機内。こんなにすいている飛行機に乗ったのは生まれて初めて。これじゃ、乗務員の人件費も出ないのじゃないかと他人事ながら心配になる。
時間通りに関西空港に到着。さっそくロイヤルネパール航空のチェックインをしようとしたら、「出発時間の2時間半前にならないとできない」とあっさり断わられる。重い荷物から早く逃れたかったのに。5分前に行っても「まだ」。なんやねん、その融通のきかなさは。
出発の30分前にゲート前に行っても閑散としている。さかんにお姉さんが呼びこみをしている。機内に入ってみたらやっぱりすいていた。こんな時期にネパールに行く人なんてそうは多くないよな。RA412便はB757。この飛行機、何のエンターテイメントもない。ビデオはおろか、音楽もない。機内誌すらない。前のポケットに入っているのは安全のしおりとゴミ袋のみ。時間をつぶすのが大変そうだ。こんなこともガイドブックには載っていない。少しずつ読み進めている「Taliban」(Armed Rashid著)を持って来て良かった。
梅雨時の日本近辺はやはり雲だらけ。景色はあまり見えない。2時間ほどで上海に到着。直行便とはいうものの、本当に直行便ではなく上海経由なのですね。いったん全員下ろされる。1時間弱ほど待って再出発。上海から乗った人が少しいたが、それでも半分も埋まっていない。何となく気分がいい。ちなみにきょうの標題はKathmanduの漢字表記。上海空港での表記による。
ほとんど雲海の上を飛んでいたので景色で暇をつぶすこともできない。寝るかしゃべるか本を読むことぐらい。私はさっきのタリバンと、あとはネパール語で1から10までを暗記していた。ほぼ定刻にKathmanduに到着。かかった時間は9時間ほど。
迎えが本当に来ているのか心配だったが、私の名前を書いたプラカードを持っている人を発見。REDPのスタッフ、Thakurさんのお宅に間借することになっていたのだ。彼と運転手のほかに、彼のかわいい子ども2人がはにかみながら、しかし好奇心丸出しの目で私を見ている。さっそく彼の家に向かう。
空港を出て最初に五感に飛び込んで来たのは炭のにおい。そう、ちょうど夕餉どきだったこともある。しかし炭のにおいがカドマンドゥによく似合っているのも確かだ。
建設が8割方終わったThakurの新居に到着。国際機関で働くだけあって、Thakurはメイドもいるし家もこうして建てている。ネパールの基準からするとかなりいい身分であることは間違いない。しばらく自己紹介などをしながら家の中を見せてもらう。3階建て、屋上付き。8時ごろから夕食。ネパールで最初の食事はダルバートと呼ばれる、こちらの定食のようなもの。ごはん、カレー、ダルという豆スープ、アチャールという漬け物あるいはピクルス、ホウレンソウのような野菜の煮物を1つの皿に入れて混ぜて食べる。Thakurらが「辛いかも」というから警戒していたが、そんなに辛くないし、かなりおいしい。おかわり!
食後はみんなでテレビ鑑賞。ネパールの番組よりもインドの番組の方が普及している。ヒンドゥー語とネパール語は似ているので、容易に理解できるらしい。しかしニュースを見ていてもインドの話ばかりで面白くないのではないか。
ネパールはインドに微妙な感情を抱いているような気がする。時差が日本の3時間15分遅れという、「ちゅ〜〜とはんぱやなぁ」(関西人限定)なのも、同じく3時間半遅れているインドと同じにしたくないという感覚なのではないか。そんな中途半端な時差、どうやって慣れたらいいのかちょっとだけ悩んでいたが、何のことはない、あっさりと順応していた。
むっと蒸し暑いが、まだ雨期の初期なので雨はそれほど降らないらしい。蚊の多さに閉口している。さっそくあすから働き始める。どんな生活になるのか。自分のことではないような感じ。ま、楽しみましょう。
きょうのネパール語
ダンネバー(ル)=thank you
この人、ふだんは何しているヒト?