90年に複数政党制が導入され、議会制民主主義が始まった。すると途端に政治家は私腹を肥やし、貧困は絶望的なほど悪化し、国政は停滞し、社会もすさんできた。確かに表現の自由などは実現されたが、国民は民主主義という言葉は悪い言葉と感じている。数ある小規模なプロジェクトも、非効率な官僚制のために途中で頓挫しているものばかりだそうだ。
日本の例を持ち出して、「官僚がしっかりしていないからだ」「国民が勤勉でないからだ」というのは簡単だが、だからといってそれがネパールで適用可能かどうかは分からない。どこで違いが生まれたのだろう。驚くほど似ている国なのに。Mr. Maithiliは「ネパール人が怠け者だからだ」と言っていた。薄給でも深夜まで働く日本の官僚。国民のためなどとは決して考えないネパールの官僚。何が違うのか。私が会った2人のように魅力的な人がたくさんいれば、国はうまく動くのだろうか。それとも黙々と縁の下の力持ちとして働く組織の方がいいのだろうか。なかなかうまい着地点がない気がする。
きょうの写真はお口直し。見事に咲くブーゲンビリア。田中さん、キョウコさん、こんな感じでいいですか。
きょうネパ
ダイ=お兄さん。ShekarがThakurを呼ぶときに使っている。
7月16日 教育のこと
ハード編再開。
ネパールの学校制度は、5・2・3年制で計10年。10年生の終わりにSLC(School Leaving Certification)という試験がある。これに合格しないと次の課程、つまり大学に進めない。例年、30%程度しか通過できない狭き門だ。残りの70%は、次の年に再度受験することは可能だが、3度以上は受験できない。落ちた人は就職するなりなんなりして学業以外の道を探すしかない。
SLCに合格できた人は大学の受験資格がある。しかし国立はトリブバン大学しかないし、私立といってもドュリケルにあるカトマンズ大学ぐらいらしい。しかも留学しようとしたら多くの外国の大学は入学資格として少なくとも12年の中等教育を求めているから、大学に2年以上在学しないと留学することもできない。街中にはよく「+2」と書かれた看板を見る。大学ではないけれどもあと2年の中等教育を満たしますという学校だろう。
留学熱は非常に高い。以前はソビエト連邦など東側の国への留学がほとんどだったらしい。意外かもしれないけど、ネパールは旧東側との結びつきが非常に強い。Thakurの斜め向かいの家は、ロシアから来ているヘリコプター・パイロットたちのアパートだ。ときおり上半身裸で日なたぼっこしているロシア人を見る。Thakur自身もウクライナに留学していた。
現在は当然アメリカ。いろいろあってもやはり「夢の国」に映るようだ。イギリスほど階級社会ではないこと(そうでもないけど)、ネパール人コミュニティがあること(NYにもあるのかな)、平等なチャンスが与えられていてだれにでも成功する可能性があること(ちょっと違うかも)が原因という。
REDPはSustainable Development(持続可能な開発)やCommunity Mobilization(地域活性化)ということをやっているだけあって、アメリカの受けもいいらしい。UNDPがバックについているし。多くのofficerが留学しているという。私が会った中でも、BaglungのMegesh、TanahunのSurajは留学経験ありだし、さらなる留学を目指してもいる。そしてカトマンズのSatishにはようやくアメリカ留学のビザが下りたらしい。一家で渡米するという。Thakurの弟Shekarも社会学のマスターを持っている。留学を目指してもいる。
しかしこうした人はごくわずかだ。5年間の小学校でさえドロップアウトする子供がたくさんいる。識字率はカトマンズで70%程度。村になれば男性で60%、女性では20%程度になり、全土平均で約40%。日本では想像できないだろうが、自分の名前を自分の国の言葉で書けないという人が国民の60%、つまり過半数いるということだ。
識字率に代表される教育程度の低さは、何も「発展」だけに関係するわけではない。カトマンズ近郊の村からインドに売られる若い娘がたくさんいる。親たちが娘を3万〜5万ルピー(約5〜7万円)で売るのだ。村人にとっては大金。インド人の男性が偽装結婚し、彼女らをインドに連れて行く。インドに着けば手続き上、離婚させられそして売春業に従事させられる。その数、10万人。何の知識もなく、自分を守るすべもなく。そしてHIVに感染し、使い物にならないほど衰弱したころに故郷に送り返される。そして死んでいく。
教育を受けていれば売春、そして買春がなくなるというわけではないだろうが、少なくとも、彼女たち、そしてその親たちが人間の尊厳というものを知っていれば、それが自分にもあることを知っていれば、そしてHIVのことを知っていれば、道具のように使い捨てられる人生以外の生き方ができる可能性もある。
教育とは世界を教えることである。社会を教えることである。自分の知らない世界を知ることである。そうすれば困難な状況になった時、利用可能になる選択肢が増える。貧しい、現金がいる、子供は余っている、金をくれる人がいる、インドに行けば子供も幸せになるだろう。そんな単線の思考から脱却できる。親が行けという、家族に現金が入る、インドに少し興味もある、この男性は優しそうだ、この村から離れてみたい。そんな近視眼的な物の見方を避けることができる。
ネパールの教師はすべて国から派遣される。しかし都会育ちの教師の多くは、歩いて何日もかかる村に行きたがらない。収入は村が払うことになっているので、多額の給料が望めないからでもある。だから必然的に村の学校は先生が不足している。村で少し教育がある人がボランティアでやっていることもある。まったく先生がいないこともある。私学が教育環境の優秀さを競い合うカトマンズとの格差は広がるばかりだ。
そしてそうした村の声を代弁するものはだれもいない。政治家は内紛に明け暮れている。官僚たちはいかに怠けて仕事をするかに熱心だ。新聞は華やかなことしか書かない。NGOは自分への寄金を集めることに血眼になる。
運良くアメリカに留学できても、資金が底を尽き、もしくは激しい競争社会についていけずに大学を辞め、以後は不法滞在者として働く者もまた多い。帰国すれば、よく知ってはいるがしかし可能性が閉ざされた世界に住まねばならない。アメリカに残れば、金銭的にはある程度稼げるが不法滞在という不安定な状態で過ごさねばならない。
教育は大事である。しかし、ではどういう教育がその国、その人々、その個人に必要なのか。どうすれば実現できるのか。それはなかなか簡単に答えの出る問題ではない。この分野でも日本がアドバイスできることはかなり少ない。教育が崩壊している国だから。
カーストが根強く残る国で、人権や平等の概念は通用するのか。政府が機能せず国内格差が絶望的にある国で教育の機会均等など絵空事ではないのか。「貧しさ」に苦しむ村人に「心の豊かさ」を説いて何になるのか。日本出身でアメリカから来てメイド付きの家に暮らし経済的には何不自由ない生活をしながら、我が身を責めるつもりで考えている。
きょうネパ
〜・ジー=〜さん。尊称を後ろにつけ、男女の区別がないのも日本語と同じ。アルファベットで書けばSir。これを女性にもつけるのが何だかおかしい。
7月15日 なべどろぼう
ここ数日はハードな話題で攻めて、数少ない読者の皆さんの脳みそをとろけさせようと思っていたが、緊急事態発生なのでしばし棚上げ。
未明、このThakur家に泥棒が入った。1階の勝手口の鍵をうまく外して、米を炊く圧力鍋2つ、コンロ、食器などを盗んでいった。朝からもう大騒ぎ。それでもすぐ近くにあったミキサーや銀の食器などは無事だったらしく、一家のショックもそれほど大きくなかった。
なんでも私がポカラにいたときには、隣の日本人の家にも泥棒が入ったとか。そいつは見つかって取り押さえられ、警察に突き出されたのだそうだ。なるほど新興住宅地だから泥棒の格好の狙い目になっているのだな。
さらに昨夜は雷が鳴り、激しい雨が降っていた。多少の物音は雨と雷鳴にかき消されたのだろう。1階にはだれも寝ていないので、だれも気づかなかった。私は午前3時頃、寝苦しくて起き、3階の自室でしばらくメールを書いていた。もしかしてその時に1階に泥棒がいたかもしれないと思うと不思議な感じだ。虫が知らせたか。
ともあれ被害が大したことなくて良かった。しかし鍋を盗んで何になるのだろう。鍋のヤミ市場なんてあるのか。それこそホントの闇鍋だったりして。お粗末。
きょうネパ
チト=早く。fast、quick。さて、チトカウ!と言えば?
7月14日 貧困のこと
UNDP(United Nations Development Programme、国連開発計画)のある統計によると、ネパールは世界で4番目に貧しい国なんだそうだ。1人当たりのGDPの額によるのだろう。別の統計では140数か国のうちで120何番目というものもあった。つまり、下から数えた方が早いということで、数値的に「貧しい」ということは変わらない。
舗装道路はまだ3割もいっていないだろう。舗装されていてもメンテナンスが悪いので大きな穴が開いていても普通だ。雨期にはどこかで土砂崩れ、橋の流失が必ずある。下水道はおろか上水道の普及率も低い。電気もそうだ。電話もそうだ。道を走っていると「STD/ISD」の表示をよく見る。電話をかけさせる商売だ。これが頻繁にあってしかも繁盛しているのだから、普及率の低さが分かる。テレビは国営の1チャンネルだけ。衛星放送はあるが、ほとんどがインドの番組。文化的に「侵略されている」と言える。
人が集まるところに行くと物乞いがたくさんいる。ヒンドゥー教が主体だから、当然カースト制度も残っていて、「untouchable(不可触民)」などという言葉が現実に生きている。Thakurの8歳と5歳の息子たちでさえ、「あの子たちは卑しいから遊んじゃだめなんだ」と近所の子供に向かって平気で言うほどだ。
自国で生産できる工業製品はなきに等しい。バスはほとんどインドのTATAという会社のもの。タクシーはスズキとインドの会社の合弁であろう「Maluti/Suzuki」というアルトに似た800ccの軽自動車。乗用車はほとんどトヨタ、ときおり韓国のHyundai(現代)。バイクはホンダ、ヤマハ、カワサキ。そして庶民のささやかな夢は自分のバイクを所有すること。車なんて高嶺の花だ。個人用の車は政治家とかビジネスで成功した金持ちしか持っていない。貧富の差は絶望的なぐらいに大きい。
しかし、彼らは本当に「貧しい」のだろうか。
ネパールは北をヒマラヤ山脈に守られ、南に大国インドを臨むだけなので、地政学的には恵まれている状況とさえ言える。だから陸軍以外は持っていない。だからネパールに「戦闘機」は存在しないと思う。しかも食料をほぼ自給している。国の安全保障を考えればこれだけ楽な情勢もあるまい。インドの顔色だけをうかがっていればいいのだから。
Thakur家の隣の空き地では、上は高校生ぐらいまで、下は学校に行く前の小さな子までが一緒になってサッカー、バドミントン、タコ揚げなどをして暗くなるまで遊んでいる。朝夕のテンプーには運転手の子供と思われる小さな子が乗っていて、客から料金を集めたり大声で客寄せをしたりしている。それは強制されているというより、小さな社会的役割を与えられているという感じで、子供自身も自信をもって仕事をこなしている。
大家族で暮らすのが当たり前。直系の家族だけではなくおじ、おばやいとこ、そしてそのまた先の親戚なども。それでもうまく回っている。
通常の勤め人はだいたい家を2軒所有している。都会と田舎に。Thakurはまあ国際機関の職員だからちょっといいとしても、それでも多くの人が持っているらしい。週末は田舎で。日曜の午後に都会に戻る。
治安もそこそこいい。たまに銀行強盗があるが、殺人事件はあまり聞かない。猟奇的なものとなればなおさらだ。従って少年の異常犯罪はまだなさそうだ。自殺もあまり聞かない。精神異常もあまり聞かない。
眼鏡をかけている子供をあまり見ない。バスやテンプーの中でゲームをしている子供を見たこともない。小さな子供はまったくの他人からもかわいがられる。社会が子供を大切にしている。
日本は確かに快適になった。快適に暮らすことを目標に進んでいると言ってもいい。しかし快適に暮らすことは「手段」であって、人生の「目的」ではない。快適に暮らせれば楽ではあるが、しかしそれで満たされることはない。日本人が感じている空虚感はこの辺に原因があるのではないか。
ネパールは貧しい。それは金銭的に、であって、決して精神的にではない。日本は「世界第2位の経済大国」を誇る前に、「世界一の幸せ者の国」であることを誇れるように努力すべきなのではないか。ネパールだけでなく、「発展途上」の烙印を勝手に押された国々から学ぶことはたくさんあるはずだ。
きょうネパ
ラムロ・ツァ=いいねぇ。良くない場合はラムロ・チャイナ。語尾が変わると意味が正反対になるのは日本語と同じ。
7月13日 マオイストのこと
最近ネパールで話題になるとしたらマオイスト(Maoist、毛沢東主義者)。しかし数少ない報道を見ても「政府との衝突で何人死傷者が出た」というものばかりで、背景や実態について何も分からない。そんなすき間を埋める情報を少し。
ネパールに来るまで、マオイストというぐらいだから中国の影響を受けているのだと思っていた。ネパールと中国は国境も接しているし。しかし実際は中国とはほとんど関係がない。むしろインドだ。
インドでは伝統的に共産党勢力が強い。特にカルカッタではそうらしい。ネパールの輸出入のほとんどはカルカッタ経由。従って、カルカッタの影響をもろに受けることになる。ネパールでも統一共産党がネパール会議派(Nepal Congress、NC)と交代で連立政権を組むなど、共産党勢力は無視できない。マオイストはこうした議会勢力とは別に、実力闘争を行うグループだ。
別に文化大革命の時のように毛沢東語録を持って闘争をしているわけではないのだから、もっとイメージしやすい名前にすればいいのだと思うのだけれど、ま、通称「マオイスト」。
彼らの主張は、王制の廃止、共和制の樹立、平等な社会実現などだが、主張そのものに威力があるわけではない。むしろ現在の政治に対するアンチテーゼの意味が大きい。
一般のネパール人は、政治家や官僚に対して根強い不信感を持っている。私腹を肥やして自分だけいい思いをしているという感覚は非常に強い。しかもネパールの国自体が、日本でイメージするような効率的な国家であるわけではない。中央政府の威光が及ぶのはせいぜいカトマンズ盆地。残りの大部分ではほとんど自立した経済を営んでいるし、国がどうのこうのということを意識することは少ない。
以前なら国王自身が一種の緩衝材になっていた時期もあるのだが、今の国王は悪評だけが高いギャネンドラ。彼が即位したちょうど1年前からマオイストの活動が急に活発になったというのは偶然ではあるまい。
しかも肝心の政府も分裂している。現在、政権を担っているのはNCだが、つい先日、党自身がデウパ現首相派とコイララ前首相派の2つに分裂し、どちらが正当な継承者か最高裁の判定待ちの段階。これで効果的にマオイストを取り締まれるわけがない。
マオイストの現在の活動は、特にネパール西部で強い。山間地が多く容易に取り締まれないということとともに、貧しい村が多いのでそれだけ中央に対する反感も強いということもある。カトマンズ市内や近郊でさえ、インフラの未整備は目立つし、大きめの街でも停電が頻繁にある。そんな「使えない」政府を倒すといっているマオイストに一種の共感が集まるのも無理はあるまい。
では実際のところどうなのか。マオイストは村や町の行政機関や警察の出張所を襲うなど、行政・治安関係を重点的に攻撃している。そのため民間の死傷者は少ない。民間人を標的にしたのでは、肝心の「共感」が得られないから当然だ。同じ理由で旅行者を襲うこともないだろうと言われている。観光産業が主要産業のネパールで外国人旅行者を襲った際の国際的反発、そして政府や軍の本格的取り締まりが予想されるからだ。
ほとんどの村にマオイストは姿を現している。その村に警察の出張所があれば焼き打ちする。警官がいれば殺傷するか追い出す。そしてその村を自分たちの影響下に置いてしまう。いざ軍や警察から追われた時、こういう山間部の村は格好のシェルターになるからだ。
またむしろ積極的に村に入り込んで、リーダーシップまで取る時がある。Parvat県の担当者から実例を聞いた。日常、村ではあまり共同体としてのつながりがない。そういう村人をまとめる臨時リーダーとして彼らが振る舞う時があるそうだ。政府の影響下にあるはずのカトマンズでさえ、マオイストの地下活動が広がっているとも言われる。
今後ともマオイストが政権を取ることはあるまい。彼らの革命が成就することもないだろう。しかしインドの共産勢力から武器や人員、組織の支援があり、しかもネパール政府が自壊している状態では、広がることはあってもなくなることはないだろう。
主要な町に出る際、入る際には警察や軍の検問がある。時にはネパール人はすべて降りて、バスに不審なものが積まれていないかチェックしてから再度乗せるという検問もある。しかしバスや車の数が多いから、1台1台、念入りに調べるなんてことができるわけではない。いくらでも物資を運べそうな程度の検問だ。そのために時間がかかるのは旅行者にとって迷惑そのものだが、それが機能していないということがもっと問題だ。
来年度予算で政府は開発予算を削って治安対策の予算を増やした。これは今までになかったことだそうだ。しかし、それが奏功すると思っているネパール人もまたいない。確かに市民の安全を守る程度の治安は必要だが、治安の強化はマオイストの凶行化と一対のもので、アメリカのように軍事のインフレ・スパイラルになることは目に見えている。
それよりも、REDPのプロジェクトが成功した村の例を挙げたい。ピンタリ村では、それまでNC派と共産党派がいがみあってきたが、村に電気を通す作業を通じて、村が一体化し、その後に来たマオイストたちを住民の総意として受け入れなかったというのだ。つまり、開発が進めば、それを破壊するような勢力を受け入れるほど住民は馬鹿ではないということだ。
開発予算の大幅削減、治安予算の大幅増は、この例に逆行する愚行。政府の無能ぶりが分かる実例だ。治安予算を増やしたからといって、あんなに深い山の中にある村1つ1つからマオイストを締め出すことなどできるわけがない。それよりも、開発によって住民がマオイストに共感できない環境を作ること、そして政府が有効に機能することがもっとも効果的な道だろう。しかし両方とも無理のようだ。
つまるところ、マオイストの問題はマオイストの存在そのものではなく、それをコントロールできない政府の問題なのだ。この関係は、アメリカとテロリストの関係と同じ。一度、この関係ができてしまうと、それで既得権益を得る勢力ができ上がり、別の道に進むことは非常に難しくなる。アメリカの強大な軍事力をもってしても世界のテロリストを絶滅できない理由はここにもある。
きょうネパ
サーク=ホウレンソウに似ているが少し苦味のある野菜
7月12日 さかな
カトマンズではあまり魚を食べないらしい。
ここ最近、食事の際に「日本人は魚をよく食べるのか」と聞かれたので、素直に、よく食べる、いろんな食べ方がある、などと答えていたら、きょうの夕食で魚が登場した。料理法そのものはシンプルで、ぶつ切りにした魚を様々な香辛料で煮込んだもの。味からしてナマズのようだ。しかし「これはなんという魚か」と聞いても、「知らない。骨が少ないというから選んだ」というだけ。ふだんから魚はあまり食べないようだ。
その証拠に子供たちは「こんなものを食べるのか」という目で見ているし、あからさまに「おえぇ〜」と言いもする。確かに少し泥臭い。しかし「日本人だから魚好きだろう」という親切心でわざわざ食べ慣れない魚を料理してくれたのだから、文句を言わずに黙々と食べる。しかしスプーンで魚を食べるのは至難の業。あまりきれいには食べられなかった。
ネパールは海がないから、どうしても魚といえば淡水魚。するとどうしても泥臭いものが多くなる。日本でも淡水魚はあまり食べないものな。
仕事は暇。来週からカトマンズの官僚達インタビュー特集のはずだったが、アポ取りを依頼していた女性に確認するとすっかり忘れていた様子。私が留守の10日間ほど、何もしていなかったということか。あわててアポを取っていた。で取れたのは火曜日の1件だけ。これもネパールテンポ。ま、こんなもんでしょう。
あんまり暇だったので、新コンテンツを作った。名付けて「How to settle in Columbia」。早い人はそろそろNYにやって来るころ。来て戸惑わないよう、少しでも参考になれればと。ページの読み込みに少し時間がかかるかもしれない。あと1年前のことなので不正確な点があるかもしれない。もしあったとしたらご指摘のほどを。
こんなものはだれかが残せばそれをあとはアップデートしていくだけだからかなり簡単だと思うし、しかも助かる面も大きいはずなのに、だれもやっていないようなので作ってみた。
コロンビア以外の人には何の関係もなく、読んでもつまらないので読者はかなり限られているが、それでもまあいっか。
きょうの夜空は珍しく晴れ上がっていて、天頂付近では天の川さえ見えた。白鳥座、さそり座を確認。
写真は、聖なる川バグマティの岸でゴミをあさる聖なる牛。いつもここでゴミをあさっている。野良牛か?
きょうネパ
コレラ=病気ではなく、ニガウリのこと
7月11日 どっちかよう分からん
昨夜、ケニアはナイロビのUNEPでインターンをしている「若旦那」からメールをもらう。12時半から2時まで休み時間だとか、仕事は民間に比べてゆっくりだとか、警備が過剰と思えるほど厳重だとか、近況が詳しく書かれていた。なんだ、結構どこも同じような感じなのだなとちょっと安心する。
そうしたこともあって、あまりオフィスでカリカリしても仕方ないと、1日に何か1つ、自分に課した仕事をすればいいというふうにしてみる。きょうは午前中のうちに今月刊行の季刊誌に書く記事を上司Kiranに提出。すると「REDPが突然出てくるが、分からない読み手もいる。少し説明を」と言われただけで、内容や構成、それどころかこういうことを書いていいのかということさえも何の注文もなかった。それをちゃちゃっとやってしまったら、もう「きょうの課題」はなくなってしまった。
いつも何か一生懸命に打ち込んでいないと後ろめたいような、申し訳ないような、もったいないような、そんな罪悪感を感じるのは、個性なのか民族性なのか。はたまたアメリカでの1年間の後遺症なのか。どっちかよう分からん。郷に入れば郷に従えだけど、やっぱりちょっとやりづらい。
よく考えたら、そんなにする仕事があるわけでもない。あともう1本、季刊誌の巻頭記事を書いて、それにannual reportの記事を1つ書いて、自分のレポートを書いたらおしまい。あと4週間もあるのに。自分で仕事を見つけるというのはかなり難しい。もう村も回ってしまったし。
ここ数日は「梅雨寒」ならぬ「雨期寒」とでもいうのか、かなり気温が低い。汗もほとんどかかないし、寝苦しいということもない。扇風機もいらない。雨はよく降るけど、蒸し暑くはならない。ちょっと調子が狂う。
サイトへのアクセスも、知り合いからのメールもめっきり減ったきょうこの頃。みなさんもう夏休みなのだろうか。きょうの右腕指数は165度。もうほぼ回復したと考えていいんだろう。こけたのが1日だから、やはり時間はかかっているな。
きょうネパ
ラントゥリア=野菜のオクラ
7月10日 文句を言わずに食べる
なぜかThakur家の朝食でゆで卵が出てくる時は、お湯から出したてのホカホカがやって来る。皮をむきやすいように冷水に一時つけることをしないようだ。しばらく触れないほど熱いのでいつも食べるのが遅くなる。それでもこれがこの家のやり方と、文句を言わずに食べる。
1週間半ぶりにオフィスへ。警備のおじさん、門番の青年、そしてスタッフみんなが「久しぶり!」というような顔をしている。さっそく宿題だった原稿を書き始める。きょうは月1回、すべての地区の責任者が集まる日。お客様おもてなし用か、なぜか午前中だけで3度もチヤが出てくる。それでも文句を言わずに飲む。
昼過ぎにお菓子盛り合わせとともにチヤが来たので、きょうは昼食はこれだなと思っていると、1時になって通常の昼食も出た。信じられないぐらい大量のご飯のダルバート。それでも文句を言わずに食べる。
夕食も当然ダルバート。しかしThakur家のダルバートが一番口に合うのは、慣れたからか、それとも子供用に味付けをそれほど過激にしていないせいか。
慣れたカトマンズにいると安心している自分もいる。特に何も変化があるわけではないが、緊張もしない。インターン4週目がそろそろ終わる。折り返し点だ。何だか早かったような、長かったような。
きょうネパ
ウルジャ=energy, office(どうしてこの無関係に見える2語が同じ単語なのか不明)
7月9日 少女クマリ
きょう行く村ビムコリは、昨日の村からさらにバイクで奥に10キロほど入り、そこから徒歩1時間半だと聞かされていた。しかしこれまでの経験から、そんなにうまい話があるとは思えなかった。
朝一番で出かけるが、ことあるごとにチヤ(主にミルクティ)を飲むので、なかなか進まない。バイクは途中まで昨日と同じ道をたどる。昨日バイクを止めた34キロ地点を過ぎてそこからさらに10キロを30分かけて走る。つまり未舗装で進まないんですな。バイクが止まりそしてゴムぞうりを渡される。なぜ?
ここからは川を遡って行くのだという。歩き始めた時、案内役Ajayが「あの3つ目の山の頂上が目的地」と言い渡した時には、目まいを覚えてしまった。その山のふもとまで川を歩き、そしてまた斜面を登らねばならない。
河原を歩くのは子供の時の遊びを思い出せばよい。急流を横切る時は、色の淡い石を踏むこと。片足だけに重心を残さないこと。川の流れに垂直ではなく45度上流に向けて斜めに足を運ぶことなどなど、一瞬にして思い出した。そうして歩くこと1時間。山のふもとに着く。山も急だが、そこに付いている道もかなり急。平気で45度はある。もっとか。それをそのままのゴムぞうりで登りだす。先日来、ゴムぞうりで急な坂を歩いている村人たちに感心していたが、まさか自分がそれをやるとは思わなかった。しかし思ったほど滑らない。これは発見だった。ただ足が固定されないので、余計な力を使うことは確かだ。
信じられない急斜面を登ること40分ほどで途中の食堂に着く。私もAjayさえももう登れない。もう1人の案内役に村人を呼んできてもらうように頼み、そこで休憩する。その食堂でおばあさんを助けていたのが少女クマリ(左から2人目)。クマリと言えば、カトマンズのダルバール広場などにいて、神のお告げをする少女が有名だが、Ajayによると「クマリ」というネパール語は本来「Virgin god」を意味するそう。英語風に言うと「Virginia」みたいなもんか。まだ小さいけど誰から言われることなく庭を掃除したり、小間使いに軽快に出かけたり。目が合うとちょっとはにかみながらにこっとするのが他の子供と違って印象的だった。
その食堂から30分上がれば村らしいが、結局村人が現れたのが2時間以上たってから。しかも3、4人でいいと言っていたのに、次々に人が下りてくる。しかも女性は明らかに一張羅と思われる服を着てめかしこんでいる。みるみる間に40人以上になってしまった。この村は水力発電を建設途中で、まだ電気はない。しかし教育の大切さを身に染みて感じており、電気さえ通ればもっと識字率も向上できると話していた。
日が陰りだしたので帰ろうとすると、村人が歓迎の儀式をしてくれた。2つの花輪、タカと呼ばれるサテンの白い布、そして額と頭、肩に赤い粉。タカは尊敬、赤い粉は安全祈願を示すという。この村もタマン族の村。外部の者に対して比較的開放的で、ホスピタリティを示すのがうれしいらしい。「どうして泊まっていかないのか」と半ば怒ったように聞かれるのに丁寧に謝るのが難しい。
残り少なくなった夕日を追いかけながら川を下り、またバイクでデュリケルへ。しかし着いたときにはカトマンズ行き最終のバスは出たあとだった。ボスは「また泊まればいい」なんてのんきなことを言っているが、着替えがないんだし、しかもバイクに乗っている間に強いシャワーに降られたので、体がメロメロ。これ以上、ここに留まりたくもないし。Ajayが親切にも彼のバイクでカトマンズまで送ってくれるというので甘える。そして夜8時半、カトマンズ着。
デュリケルは標高1500メートルなのでさすがに涼しく、濡れた衣服に包まれて凍えていたが、カトマンズまで下りると生ぬるい空気になりほっと一息。Thakurの家に戻り服を着替えてやっと落ち着いた。結構、体力的にきているかも。それはThakurもお見通しだった。あすから数日はカトマンズにいることになった。右腕指数は120度。
番外 きょうのタマン語
エラ・ミン・ティラ=What's your name?
先日も訪れたKavre県を再訪。今回は村周り。カトマンズの東隣の県なので近いと言えば近い。まず中心地のデュリケルへREDPの車で。そこでオートバイに乗り換えて別の道を34キロ、1時間。3分の1ほどは未舗装の砂利道で、お尻が痛い。
着いたらバイクを降りて、案内役のAjayが一つの山を指さす。「あれが目的地」。見ると確かに民家が見えている。しかし、車道から垂直に近い絶壁。そこをよじ登っていく。気温30度以上、そして蒸し暑い中を海抜900メートルから1100メートルまで200メートル登らねばならない。4つんばいのようになりながら、必死で登る。
目的地のピンタリ村に着くと上はかなり開けていて、菩提樹の下に村人が集まっていた。村の小学校の校庭に場所を移してさあ懇談。私は数人にインタビューできればいいと思っていたのだが、村中の暇な人が集まってきて、あっという間に50人以上。みんな日本人が珍しいらしい。子供は好奇心というより、思考停止に近い目でこちらを見ている。目が合えば恥ずかしがって隠れてしまう。
この村はタマン族がほとんど。多様な人種がいるネパールの中でもモンゴル系に近いようで、チベット仏教を信じている。それだけに、自分たちと顔が似ている「異邦人」が珍しいようだ。これも先日デュリケルのオフィスで会ったフランス人3人もこの村に滞在しており、再会した。こういう白人ならもっと分かりやすい「異邦人」だけど、私はそうではないから。
模範の村だけあって、かなり客慣れしている部分もあり、リップサービスに近いこともあったが、まあ聞きたいことは聞けた。この村はもうすでにほぼREDPの手を離れており、自分たちでマネジメントをしっかり行っているという。生み出した電気の活用法も、穀物の脱穀、電動のこぎりを使った家具製造、照明を利用してのタンカ(仏画)作成、換金作物(ニンニク)の栽培、線香製造など、自分たちのアイデンティティを生かしながらかなりバラエティがある。3か所目にして初めて水力発電の機械そのものも見たし。かなり中身はあった。
またお尻を痛くしながらデュリケルに戻ると、そこのボスが「きょうは泊まっていけ」という。帰るつもりだったので着替えも何も持ってきていない、カトマンズでやることがあると抵抗したがそれも空しく、外堀はすべて埋められていた。「Panorama View Hotel」というところに泊まる。しかし雨期のため、乾期なら見えるというヒマラヤのパノラマがまったく見えない。
夕食を食べていると、食堂に蛍が飛んできた。ネパール語でジュンキリ。最初の音は「ジュ」と「ヅ」の中間の音でかなり微妙だけど、あえて書くとジュンキリ。3回点滅して休み、また3回点滅というリズムでライムイエローの光を放っている。山の上なのでそんなに数は多くない。しかしこれまで村で夜を過ごしたこともなかったし、地方に行っても中心都市でしか泊まっていないから、蛍を見る機会がなかった。これは乾期では見られないもの。ヒマラヤの代わりにジュンキリ。
部屋に帰って蚊と戦いながら寝る。なぜか虫の多いホテルだ。右腕指数は105度。
番外 きょうのタマン語
ラッソウ=こんにちは、さよなら、ありがとうなど何でも使える便利な言葉
7月7日 青春18バス
朝6時半には送りのジープに乗り、まず20数キロ離れたバイラワのバスパークへ。7時15分発のカトマンズ行きバスに乗り込む。途中、軍や警察の検問が6か所以上。客の乗降車、無数。郵便局間の郵便物の集配、無数。トイレ休憩2回。昼食休憩1回。もったりと暑い空気の中。バスが動いていない時は汗が出る。動けば引く。その繰り返し。シートはクッションがほとんどない感じで、少し座っているとお尻が痛くなるので、狭いシートの中で何とか重心の位置を変えるべく努力する。
ブトワル、そして熱帯雨林の村の脇も通り、カトマンズとポカラを結ぶ山道に入ったころはもう午後まっさかり。今度は日差しで暑くなってくる。しかも車内にはキンキンしたネパールの歌謡曲が大音量。すべてに倦んでくる。上り坂では極端にスピードが落ちるバスで、ほかのバスにどんどん抜かれる。それを取り戻すべく下り坂では信じられないスピードで走る。でこぼこで座席から浮くこと、無数。
日も傾いたころ、カトマンズ盆地に入る。雨が少し降っていて、かなり涼しい。やっと帰ってきた。家に帰ると、まず2人の子供たちに迎えられた。Thakurと奥さんも心配していた。本来は昨日帰るはずだったから。Thakurは先程、Shivaと電話で話をしたらしく、事情は飲み込んでいた。ここまで約11時間。ずっと車に乗っていた。青春18きっぷみたい。
帰ってするのは、たまりにたまったメールを取り込むのが第一。そしてやっと落ち着いた。あ〜しんど。でも休む暇はないようだ。
きょうの右腕指数は120度。昨日の150度はホテルの冷泉に1時間以上つかったから、その特殊効果。
きょうネパ
ババ=papa
7月6日 何もない。何もない。まったくなんにもない
朝早くからブトワルでMicro Hydro(小規模水力発電)用の発電機などを作っている会社を訪問。土曜日はネパールの休日なので工場にはだれもいない。オフィスで1時間ぐらい話を聞く。この工場の社長Shiva氏はそのうち肝心の話はどうでもよくなったらしく、次々に娘や息子を連れてくる。日本で働き、アメリカで学んでいる私の話を子供に聞かせて、もっと勉強するようにお説教したいらしい。
彼には昨日から世話になったし、教育が大事なんだという彼の持論には何の前提もなく共感できるので、私なりに思っていることを説明する。自分の人生の目標をまず持つこと。そしてそれを実現するためには勉強しないといけないこと。そんな話。
そこで昼食もごちそうになる。お決まりのダルバート。しかしやはりかなり塩辛い。この地方の味かもしれない。彼の子供は3人の女性と1人の男性。特に次女はかなりべっぴんさん。これで9年生(中3)というから恐ろしい。
礼を言ってバスパルクへ向かおうとすると、Shivaがバイクの後ろに乗れという。バスパルクまで乗せてくれるのかと思ったら、雨が降らない限りバイクでルンビニまで27キロ、乗せていくという。途中で雨が降ればそこからバスに乗せてやるという。なんとまあ、気に入られたようだ。ありがたく乗せていただく。
バイクはただひたすら平原の中を走る。牛、犬、バイク、自転車、車。田んぼ、まばらな林、点在する家。粘着質の空気の中をバイクで走る。自分で運転できればもっといいのに。ここタライ平原はすでにインドの一部のようなもの。におい、風景、暑さがカトマンズやポカラとはまったく違う。
1時間ほどでルンビニに到着。きょうルンビニを見学してその足でカトマンズに帰ることは不可能だそうだ。帰れたとしても到着は真夜中。それは現在の政治状況から外国人には難しいだろうということだった。「危険を避ける」というのが原則なので、不承不承、ルンビニに泊まることにする。ここでもShivaが「いいところがある」というのでそのまま連行されたのが「法華ホテル ルンビニ」。ネパールの水準ではかなり高いし抵抗感もあるが、カードが使えるのでまあ仕方ない。Shivaは彼なりに、私が日本人であることからここを選んだのだろう。そんな優しさにこたえることにする。純和風の部屋。畳に障子に布団。エアコン、テレビ。これまで泊まってきたホテルからは別世界。今はオフシーズンなので、今夜の客は私1人。ホテルの全従業員が私のためだけに働くという王様状態。そんなことがあってもいいやな。
無料の貸自転車に乗って遺跡にゴー。しかし「歩き方」の地図はあてにならない。道は未舗装がほとんど。しかも水たまりが多く、まっすぐに走れない。いきおい、回り道をしないと行けないところも多い。汗だくになりながら遺跡の中心部に到着。ルンビニの範囲がかなり広く、縦に長いので歩いてはとても回れない。自転車を借りて良かった。
しかし釈迦が生まれたという場所には、菩提樹と、亀が首を伸ばして日なたぼっこをしている池があるだけ。周りの田園風景となんら変わりない。神聖な気持ちになることもなく、ましてや敬虔な気持ちになることもない。アショカ王が建てた石柱は、建設途中の建物の影になって、威厳もなにもあったもんじゃない。
この平原の気だるさ、のっぺりとした空気の一部。そんなルンビニ。釈迦の説いたものはすでに現在では効力を失っている。それを象徴する一種の「死んだ」もしくは「停止した」風景。イスラム教徒にこっぴどく破壊された遺跡。物悲しくすらならない。インド的な時間の流れでなめされたような風景。何も変わらず、何も特別なことがない。死すら特別なことでなくなる気さえする。そんなルンビニ。
きょうの右腕指数は無理すれば150度。かなり回復。
きょうネパ
ビジュリ、ビドゥ(トゥ)=electricity
不安その1。ダマウリで良かったんだっけか。確かきょう向かわないといけないのはTanahun県の中心ダマウリと記憶していたが、資料のどこをひっくり返してもその地名が出てこない。確かDで始まって、でもデュリケルではなくて、などと思い出す。ホテルの人に聞いても要領を得ない。タクシーの運転手は英語がよく分からないらしい。こうなったら一か八か。カトマンズ方向に45分から1時間戻ればいいのだから、記憶を頼りに自分の中でチェックしていくしかない。
不安その2。体力と身体と気力は回復しているのだろうか。6時45分にはタクシーに乗って次の目的地を目指す。カトマンズとポカラを結ぶ「ハイウェイ」をややカトマンズ方向に1時間ほど戻り、ダマウリへ無事到着。来るときには気づかなかったが比較的大きな街で、しかも清掃が行き届いているのがネパールでは珍しい。ここでTanahun県の担当者Surajと落ち合う。もう1人、Community Mobilizer Managerの男性も一緒。3人でバスに乗りさらにカトマンズ方向へ。かなり進んでカトマンズ方向(東)と、南つまりインドに向かう方向との三差路でバスを乗り換え、南へ。しばらくまた行って何もないところで下車。おや?よく見るとそばの大きな川につり橋が架かっている。その先に民家が少し見える。ぎょえ〜、あの山をまた登るのか。そんな私の動揺をよそに他の2人は淡々と進んでいく。今回はオフィスに荷物を置いておくこともできなかったので、PCまで背負った「フル装備」状態での山登り。しかも川沿いの低地から始まるので、熱帯雨林のような蒸し暑さの中、足下もじめじめした中を歩いていく。途中、しんどくて立ち止まると、「山ヒルがいるから」と注意され、さらに歩く。いちばん近くの民家に着いた時にはもう消耗状態。エネルギーは完全にチャージされたわけではなかったようだ、やはり。
それでもこの家の主人(写真右)は笑顔が素敵な人で、いい話も聞けた。これから水力発電の施設を建設して電気を引こうという、いわば夢のある状態だからかもしれない。かなり楽観的な意見を持っていた。しかし、ここの家は村では裕福な方だという。牛もヤギも鶏も犬も猫もいるし、畑も広そうだ。川べりの斜面で暮らすことがどれほど大変か、想像は容易にできる。それでも電気のおかげで希望が持てるという。
ここで昼食のダルバートまでごちそうになる。しかし汗をかく環境で働く人のためだろう、塩気がかなりきつく、残さざるを得なかった。済みません。
不安その3。まだ回るのだろうか。本来は、未消化の村をもう1つ回るはずだった。最初の村で男性から話を聞いていても、「もう1つ回るんだ」「そこは1時間歩くといっていたっけな」「何と言って回避しようか」「うまく避けられる方法はないものか」などとぐるぐる考える。が、私の体力がそれを許さないことは明白。あっさりとその村はスキップすることになった。
不安その4。本当に着くのだろうか。Surajはカトマンズへ向かうというので、そこで別れ、英語のあまり話せない男性と一緒に南に向かう。まずナラヤンガートに。そこでバスを乗り換え、私だけがブトワルへ。ナラヤンガートはもうタライ平原の街。この平原はインドとつながっている平原。急に蒸し暑くなる。しかも何だか沼地のような匂いがする。田んぼと牛の数がどっと増えた。ブトワルはさらに暑く、カトマンズが恋しいくらいだ。バスパルク(バスターミナル)に着くが、迎えに来ると聞かされていたShivaはおろかだれもいない。Shivaの連絡先に電話するもだれも出ない。いったい、この何もない街でどうしろというのか。
不安その5。金がない。さらに悪いことにルピーをほぼ使い果たして、所持しているのは約100Rs(150円程度)のみ。こんな大きな街だから両替所くらいあると思っていたし、Surajも太鼓判を押していたからそれを信じていたのだが、だれに聞いても「ない」。銀行はあるが着いた時には閉店時間。しかもあすから3連休らしく、もうルピーを手に入れることが難しくなってきた。ホテルにも泊まれないし、バスでカトマンズに帰ることもできない。それどころかカトマンズのThakurに電話したら一発でふっとびそうな少額。助けを求めることすらできない。しかも雨が降ってきた。すべてを放り出してカトマンズ、いやアメリカ、いや日本に帰りたくなってきた。なんで私はこんなところで路頭に迷っているのだろう。
再度、念のために貴重品袋を点検してみる。確か米ドルはカトマンズに置いてきたはず。ルピーをたくさん持っていると錯覚していたから。しかし何と袋の中に入っているじゃないですか。この時ばかりは自分をほめてやりたかった。よくやった。そして我が身を守ってくれたものに感謝。米ドルさえあれば何とかなる。このままではどうしようもない、まずホテルに米ドルで泊まってルピーのおつりをもらい、それで次の行動を考えよう。そう頭の中を整理したらすっきりして、再度電話。すると物事はうまく運ぶもので、Shivaがやっと出た。彼に迎えに来てもらい、しかも友人が経営しているというホテルへ。米ドルの受け入れもOKということなので、安心して部屋に入った。それが午後7時半。
この12時間、不安との戦いだった。1人の旅行ならいいのだが、アレンジしてくれている人、それに従って見ず知らずの人が動いてくれていると思うから、何かうまく行かないとすぐ不安になってしまう。「迷惑をかけたんじゃないか」と。現にきょう訪問した村の男性は昨日、午後2時からずっと私が来るのを待っていたらしい。村には電話がなく、私が前夜「行けない」と言ってあったのが伝わらなかったらしいのだ。まぁこちらはしかるべきところに連絡はしているのだからいいといえばいいのだろうけど、せっかく時間を取ってもらって無駄にしてしまった意識は消せない。申し訳ない。
ちょっと疲れたのかな。早くカトマンズに帰りたい。きょうの右腕指数は95度。
きょうネパ
バスタビクタ=Really?
7月4日 回復に努める
予定を変更して、きょう1日をポカラで休養に充てることにした。このまま旅を継続しても満足に動けないのだから。右肩といい足といい腰といい、満身創痍の状態。体もそうだが、心も疲労している。どっちが先に疲労したのか分からないぐらい、ごっちゃになって疲れている。
それでも朝6時に目が覚める自分に苦笑しながら2度寝、3度寝をして9時までベッドの上。珍しく温水の出るシャワーを浴びて少しすっきりする。このホテル「View Point」のあるダムサイドは日本語の看板があふれている。それだけ日本人が多いのだろう。ネパールなんだかどこなんだかよく分からない状態。ホテルの女性も片言の日本語を話す。ネパールにいることも忘れて、昼食はカツ丼、夕食はマーボー茄子定食。いずれも日本の味からは遠いが、日本的なもので少しでも回復を図ろうという魂胆。おいおい、ダルバートはどこにいった?
普通ならそんな環境を嫌悪するのかもしれないが、今はそれも許せる。昨夜、ともかくもポカラに来たかったのはそういう安心できる状況が欲しかったからだ。
本当はもうすべてこれからの予定をキャンセルしようかと思っていた。一番の目玉だった昨日の村で何もできないままだったから、今後、同じような村を回っても仕方ない気がしたし、そう思わせるほど疲れていた。しかしThakurに「今後の村はそんなに遠くない」と励まされ、また旅を続行することにした。
あすがどうなるか分からない。でもとにかく現場を見る旅は続く。きょうはだいぶ回復して右腕指数は80度。水平まではまだ上がらない。
写真はペワ湖の湖面に映った夕焼け。モネの睡蓮をイメージさせる。
きょうネパ
アマ=mama
7月3日 I'm exhausted
寝苦しい夜だった。暑さのせいか。5時半に起床。よし、雨も降ってない。6時半ごろ出発。
最初に軍の検問を通過する。リュックの中をチェックされる。日本人がこんなところに来ることはないのだろう。興味津々だ。
まずカリ・ガンダキ川の川床まで下りる。急ながけを何度も折り返しながら石段を下る。昨日の雨で所々、石が流されている部分もある。下りきると川を渡る長いつり橋。下を見ると灰色の川が怒り狂ったように流れている。渡ってからは川に沿って歩く。小さな集落までが1時間。そこからまたがけを登る。たとえて言うと、緑に覆われたグランド・キャニオンの一番上からいったん下の川沿いまで下り、また上って、また下りてという作業を何度も繰り返すようなもの。途中、ジープが通れるようにと建設途中の道を歩くときだけがやや楽なぐらいで、あとはアップ&ダウン。
Megeshは「この道はREDPの対象の村に行く一番楽な道」と涼しい顔で、私をおいてどんどん先に行く。ほとんど分岐もない道だからそれでもいいのだけれど、1人で自分のあえぎ声を聞きながら進むのはやはり疲れる。追いつこうと頑張るからもっと疲れる。
最後の1時間はまた上り。遠くに目的地が見える。「まだあんなにあるのか」と嘆いたら、彼が笑う。ネパールでは目的地が見えたら、それは近いということだそうだ。でもその目的地はずっと遠くにかすんでいるんですけど。
目的地は2つの川の合流点にあり、やや開けた感じ。しかしそこに着いたころには私はすっかり疲れきっていた。汗はだらだら、足はがくがく、そして歩き出したころから軽い頭痛もあった。昼食を取るために入った食堂で休ませてもらう。水をもらう。細菌が入っているかどうかなんて気にするまでもなく、ごくごくと飲み干す。出発から3時間15分。地元の人は3時間というから、結構いいペースで歩けたんじゃないか。その分、疲れたけど。
ダルバートを食べ終えると、店のお姉さんが白い液体をコップに注いでくれる。なんでも、ヨーグルトを作る際の副産物だそうな。飲んでみるとどぶろくのような感じ。アルコール分はないけど。すっぱい。塩を入れるとすっぱさが緩和された。
しかし帰ることを考えると時間はない。このバザールがある村はREDPの対象ではなく、川向こうの山の斜面に家が点在する場所が対象の村らしい。そこに行くためにはトウモロコシ畑の間をぬって、小さなつり橋を渡って、また上り。しかもMegeshは正確な道を知らないらしく、道に迷う。それでさっきようやく少し回復した体力がまたもや消耗し、途中の水場で私は動けなくなった。彼が村人を呼んでくるというので待っていたが、一向に来ない。一人で帰ろうかと思ったころにようやく彼1人が帰ってきて、彼が引き会わせたかった村人はいなかったという。仕方なくその辺りにいた人に話を聞く。
この村のもう1つの目玉はコンピュータセンター。村に唯一ある無線電話と一緒に使うことで、メールの送受信が可能になり、村から出稼ぎに行った人と村人がコミュニケーションを取れるようになったという。村といっても山いくつかが範囲なので、外から電話があっても話したい相手は電話のそばにいない。だからメールの方が便利なのだ。
しかし肝心のセンターは閉まっている。なんでもPCが動かなくなったとかで、管理人がポカラまで出向いているのだそうだ。行き違いやん。あかんやん。
それも失敗し、失意の中で帰途へ。このころから太陽が顔を出し始めたため、汗が倍増。しかも疲れていることもあり、足を引きずるようにして歩く。歩くというか前のめりに倒れ込むように進む。上りでは極端にペースが落ちる。
こんな険しい道だから、運送手段はもっぱら人力。大きな荷物を抱えた人とすれ違う。そしてポニーの隊列。これとすれ違うのも一苦労。馬は狭い幅の道の通りやすい部分を通ろうとするから、がけすれすれのところで彼らをやり過ごさないといけない。もう景色もこんな異国情緒も楽しむゆとりはとっくになく、ただひたすら、「帰れる」ということを希望の灯にして歩く。いや、倒れ込む。
カリ・ガンダキの手前のつり橋前でまた休憩。しかし水を飲むのが精いっぱい。そして下りでさえきつかったがけを上っていく。どうしてこんな道しかないのか不思議だが、これしか道がないから仕方ない。地元の人はゴムぞうりで歩いている。制服を着た学生も歩いているから、ここを彼らは毎日通っているのだ。人間ってすごい。
Kusmaに着いたのが午後6時。帰りは4時間かかっている。Megeshが何か冗談を言っているが、それをまともに聞けないし返事をするほどの体力も残っていない。ここから離れられることが今、唯一の希望だ。
オフィスに置いていた荷物を回収してMegeshと写真を撮る。彼とは何だか不思議な関係になった。ずぼらなところもあるが、憎めないというか。ばたばたしたなか、握手を何度もしてバスに乗る。
午後8時以降の外出禁止令が出ているので、それまでにポカラに着けるかどうか心配だった。しかし何の問題もなく、8時半にポカラ着。しかし街はもう真っ暗で、タクシーすらない。バスターミナルに行くというバスに乗り継ぐが、何だかバス路線ではないような道を走っている。もしかして違うバスに乗ってしまったか?何度も周りの人の聞く。心配が極致に達したころ、ようやく見慣れたターミナルに到着。すぐタクシーに乗って「歩き方」に載っているホテル街へ。しかしこの運転手、地名を知らないらしく、あっちに行ったりこっちに来たり。しかも車が何度もエンストする。今日中に着けるのか不安だ。途中、酔っ払いやよくわけの分からないおじさんまで車に乗せて案内させようとしている。プロの運転手ではないのか。
ようやくホテルに着いたら9時半。開いていてよかった。オムライスを作ってくれるというのでそれを食べる。ご飯がスパイシーで普通に考えるオムライスとは違うが、今は食べられることに感謝。とにかく疲れた。もう一歩も歩けない。部屋に帰ってすぐに寝る。きょうの右腕指数は15度。
きょうネパ
ムォイ=ヨーグルトを作る際に出来る液体
前日から降り続いている雨はやまず。6時にMegeshが迎えに来ると言っていたので、起きて待っているが彼は来ない。ネパール風ミルクティのチヤを飲みながら待つが雨もやまないし彼も来ない。一体、どうなっているのか。7時頃ようやく電話があり、この雨では無理だからあすにしようと。それなら早く言えって。
10時から彼のオフィスで議論。このころには雨もやんだ。これからでも行けるのではと思ったが無理らしい。お互いに英語が完全にできるわけではないので、意思疎通が難しい時がある。彼はやはりREDPのプロジェクトの成果を強調したいだろうし、こちらが聞きたいのはそういうことではないし。話していてもその落差があるから、なかなかこちらの聞きたいことが聞けるわけではない。なんとかインタビューをコントロールしようとする。結構、盛り上がってきたころに何度も中断が入る。そのたびに話が途切れてしまう。うまくいかないもんだ。
2時、彼のバイクの後ろに乗って、ややポカラ方面に戻り、隣り合っているParvat県の中心地Kusmaへ。あす村に行くにしてもここから出発した方が近いので、きょうのうちに移動しておこうということだった。この県にあるREDPのオフィスにも寄るが、秘書役の女性とメッセンジャーがいるだけ。ここで夜まで時間をつぶす。
きょうはどこに泊まるのかと思ったら、Megeshは「寝袋は持っているか。このオフィスに泊まろう。安全だから」とのたまう。残念ながら寝袋なんて持ってないし、オフィスに泊まるつもりもない。だって斜め向かいにホテルが見えているし。この危機は何とか回避され、そのホテル「Bandana」に泊まることに。夜、頻繁に停電がある。ポカラで電力消費が増えると、BaglungやKusmaへの送電がカットされるそうな。そんな理不尽なことによく怒らないものだと言ったら、Megeshは「怒ってはいるけれど諦めてもいる。政府は何もできない。電力は豊富なのにdistributionが悪いんだ」と苦笑していた。
宿代を抑えたいというので彼と相部屋。彼は奨学金を取ってアメリカの大学院に留学したいと言っている。それで私の話を聞きたいのだろう。いろいろと聞いてくる。
きょうは何だか1日損したような日だった。生産的なことを何もしていない気がする。朝、雨さえ降らなければ村に行けたものを。きょうの右腕は、前日よりも悪く指数30度(30度までは上がる)。鋭い痛みがないから、おそらく数日は悪化して、それから徐々に回復していくだろう。
きょうネパ
メロ・ナム・〜・ホ=My name is 〜
7月1日 I got wounded
いよいよ村回り。ネパールに来た本来の目的を達成する週がやってきた。
前夜から降り続いた雨は朝になってもやまず。8時に出発するポカラ行きのバスに乗るため6時に起き7時にバス乗り場へ向かう。いつものようにテンプーをつかまえてカンティ・パトのテンプーのターミナルまで行き、そこから北上する。
と眼前に信じられないくらい大きな水たまり。これを越えないとバス発着所に行けない。しかし回り道はなさそう。ジャンプ一発で飛び越えられるほど小さくもない。仕方ない、1度は水に濡れてもいいから、2ステップで越えよう。それ!
次の瞬間、何が起こったのかよく分からないが、水たまりに突っ込んでいる私がいた。あわてて起きる。右手の感覚がない。右の手のひらと右ひざをすりむいている。ズボンの右ひざのところが破けている。雨に濡れないように前に抱えていたリュックも、ところどころ水浸しになったりすれていたりする。とにかくバスの時間が気になるので発着所までそのまま歩く。靴の中はもちろんずぶぬれで気持ち悪い。
発着所に着いて落ち着き、まず傷口を洗う。破傷風の予防注射は打ったんだったけか。よく覚えていない。前のめりに転び右手をついたので、右肩に全体重プラス重いリュックの荷重がすべてかかった形になったようだ。骨は折れていないようだが、右手に力が入らないし水平以上に右手を上げられない。筋を傷めたのかもしれない。とにかくバスに乗り込んで波立った心を落ち着ける。
「グリーン・ライン」というバス会社のポカラ行き。途中、豪華リゾートレストランで昼食付き。これで10ドル(または780ルピー)はネパールの水準からするとかなり豪華版。日本の感覚で言うとやっとまともな観光バスに乗ったという感じか。カトマンズを出るとすぐに急な山道。「ハイウェイ」と名のつく道路を走っているのだが、これも日本の感覚では箱根の国道1号線。バスはとてもゆっくり走る。やはりクラクションをがんがん鳴らしながら。
主要な街に入る際、出る際にはとりあえずの検問があるし、所々には軍の車が待機してもいる。マオイスト(毛沢東主義者)の出入りをチェックしているのだろう。時には係員がバスの中に入ってきて怪しいものがいないか、怪しいものを運んでいないかも検査する。とはいえ外国人だからといって何かあるわけでもなし、パスポートや身分証明書のチェックがあるわけでもない。
1度トイレ休憩があったあと、バスが渋滞につかまった。何でもがけ崩れがあったとかで、なかなか動かない。ずらりとバスやトラックが道路に並ぶ。30分以上そうして動かず。これもネパールとのんびり構える。バスの中は珍しく冷房がきく。これは助かる。濡れた服や靴下を乾かすのにちょうどいい。
がけ崩れだけでなく路肩が崩落している所もあり、結構スリリング。風景はやはり日本の田舎に似ている。というか稲作風景はどこも同じようなものかもしれない。棚田がきれいに保持されており、非常に美しい。
渋滞のおかげで1時間弱遅れてポカラ着。バスを降りるとさっそく客引き。なぜ日本人と分かるのか不思議だが、とりあえず日系アメリカ人のふりをする。REDPの人が迎えに来てくれるはずなので、客引きには用がない。しかしその迎えの人が見えないので、いきおい客引きは「うちに来い」「もう来ないよ」「ホテルで待てばいい」「私がその迎えの人を知っているはずだから名前を教えろ(嘘やろ?)」など言いたい放題。
20分ほど待ってようやく合流。彼はBaglung(バグルン)地区の責任者Megesh。なかなかハンサムな好青年だ。まずバスでオールド・バスターミナルまで行き、そこから乗合タクシーでBaglungを目指す。ちょっと行けばいいだけかと思ったら、なんとポカラから75キロ、タクシーで2時間かかるという。ローカルバスでは4時間。彼はローカルバスで出てきたので遅れたと言い訳。ともかく30年前のカローラで山道をさらに上っていく。途中、タイヤがパンクしたのでタイヤ交換を待つ間、茶店のようなところで休憩。雨が降りだしてきた。ここのお姉さんは珍しく笑顔が素敵な人。「チョウメンを食べるか」と言われたので、それが何を意味するか分からずに同意すると、インスタントラーメンが出てきた。申し訳程度にタマネギが入っている。カレー味。
もう暗くなってからBaglungの中心地Baglung Bazaarに到着。ポカラから2時間以上。雨はかなり強い。本来はREDPの地域オフィスにも行くはずだったが、もう時間がないのですっとばす。ホテルに入る。その名も「Hotel Peace Palace」(右写真)。私が泊まるにふさわしい。あすは6時に出発するとのこと。目指す村は徒歩で片道3時間。慣れていない私なら4時間かかるだろうということで早めに出ることになった。これでも一番近い村だそうだ。REDPの対象となっている村で最も遠いのは徒歩で片道3日。Baglung県で一番ここから離れているのは徒歩で片道5日。すごいところです。
きょうネパ
チョウメン=ラーメン(インスタント含む)
6月のネパール
この人、ふだんは何しているヒト?