その通りに事は運んだ。すぐ日が射し始めた。それっとニャタポラ寺院(写真)を目指す。日本ではおなじみの五重の塔。しかしカトマンズ盆地では一番高い寺院だという。たったの30メートルで。この街はせいぜい15世紀ごろからだから、奈良の法隆寺や京都の東寺がいかにすごいか分かる。法隆寺は世界最古の木造建築だからな。
なんだか音がかわいいそのニャタポラ寺院の階段を上り、座って景色を眺める。緑の田んぼと山が見える。そして期待してた青空。やはりバドガオン(帰依者の街の意)には青空が似合う。思った通りだ。チベットで買ってまだ残っていたヒマワリの種をぽりぽり食べながら青と緑を眺める。
そこでチベットを一緒に旅行したフランス人女性3人組と会う。彼女らはチベットに行く前にも来ていて気に入ったからまた来たそうだ。食事を一緒に食べようと誘われたが、残念ながら済ませている。じゃあねと言って別れる。もう会うはずもないけど、じゃあねで別れる。
ニャタポラの周りには「King Curd」の店が多い。ヨーグルトの王様。名物なのだ。1つ買ってみる。8ルピー。素焼きの入れ物に入っている。甘いけど酸っぱい。疲れた足にちょうどいい。しばらく歩いたら文字通りのKing Curdの店もあった。KingとCurdの間に小さく「size」と書いてある。本当にキングサイズのヨーグルトだった。こっちはパス。
素焼きも名物。素焼きのろくろを道端で回しているし、出来た品物を干す広場もあったし、売っている店も多い。こりゃ楽しいわ。何をするでもなく、本を読むだけでもいい。ここに数日滞在してもいい。何より心がささくれ立たないのがいい。いかに車の騒音と排気ガスが私の心に悪影響を及ぼしているかが分かる。
しかしきょうはここまで。また排気ガスとススと騒音にあふれるカトマンズに戻る。
きょうネパ
サブン=せっけん。「シャボン」と似ている。これはポルトガル語源だったか?
8月17日 沈黙
この長い空白期間は何?8日間も更新がないなんて。事故?病気?それとも人に言えない事情?もしかしておめでた?
気になる人はこちらへ。
8月9日 インターン終了
朝から用を足しにタメル地区へ。ネパールの商店の朝は遅い。10時になっても開いていない店も多い。何とか午前中で終わらせてオフィスへ。
レポートを元にした原稿はほとんど手をつけていなかったので、さっそくそれに取りかかる。とは言っても、主にコピー&ペーストで、前後のつながりをつけるだけだからそれほど時間がかかるわけではない。
さて出力しようとしたら、フロッピーは壊れているは、フォーマットしようとしてもだめだは、ある人物のパソコンはウイルスに汚染されているは、プリンターはどれもトナー切れだは、で、さんざんな目に遭う。きょうはすべての職員がセミナーに行っているらしく、だれもいない。各人のパソコンを渡り歩いて、ようやく印刷に成功。これで私のタスクも終了。しかしだれもいないので、なんだか終わる実感がない。テンプーで帰りながらこのテンプーにはもう乗らないのだと考えてみても実感がわかない。淡々とした1日、普通の1日だった。ま、そんな本人の実感はともかく、8週間のインターンがきょうで終了。ぱちぱち。
下の弟Parthの最近のお気に入りは「大車輪」。プロレスで言うとジャイアント・スイングですな。目が回って足下がふらつくのがおもしろいらしい。何度もやってとせがむのでその通りにやっていると、さすがに気持ち悪くなったようで、「ママー」と言って泣きながら母親の所へ走っていった。こういうところがまだ赤ちゃんだ。
あと2週間でネパールから離れる。身になったのか、なっていないのか、それはNYに戻ってから分かるだろう。
きょうネパ
チャルピ=トイレ
8月8日 宮仕えと日本印度化計画
自分で志願したレポートがきょうようやく完成した。しかしプリンターのトナーは切れてるし、フロッピーは満タンで新しいものもないとか。結局自分の使っているパソコンからいかなる形でも出力することができないまま。あした方法を考えてみよう。
そのレポートは、REDPのプログラムによって、村人の意識がどう変わったかを調べたもの。先月中旬、はいずるようにして回った村でのインタビューを元に、ネパール側の関係者、そして援助する側としてJICAの2人にも話を聞いて構成した。
村での取材そのものが体力的にぼろぼろだったのもあるし、よそ者を本能的に警戒する村人の壁もないわけではなかった。回った村がモデル地区ばかりで、しかもマオイストのせいで変わった村には行けなかったということもある。ネパール語、そしてそれぞれの民族の言葉と英語の壁もある。いろいろ制約はあったけれども、これまでREDPでも「心境の変化」に焦点を当てたレポートはない。すべて数値を重視したもの。だからこそやる意義はあるだろうと。
数値は参考にするけれども信じはしない。もし村の世帯の平均収入が上がったというデータがあっても、村の中で数人だけが極めてリッチになっただけかもしれない。もしそうだとすると、村の中で、少数のリッチと多数のプアーの格差がかえって広がってしまったことになる。「平均」の恐ろしさはここにある。
それよりも、データに表れない「心境」こそ大事ではないのか。もし数値上の改善が多少だったとしても、村人が前向きに自分たちの将来を考えられるようになれば、不可能なことは何もない。満足度や希望は数値では測れない。だからこそ、村人の言葉を多く引用して、彼ら彼女らが何を感じていたのか、何を感じているのかをつかまえようとした。
はっきり言ってその狙い通りになったかどうかは微妙だが、変わったレポートにはなった。ま、日本出身でアメリカから来た変なやつが書いたレポートとしてはいい感じなんじゃないの。ありきたりのレポートを書いても仕方ないし、何より私自身が面白くない。
このレポートを元に、次の季刊誌の巻頭記事を書けばおしまい。それをあす1日でやるだけ。それでインターンもおしまい。
経済的自由と精神的自由は相反するものか。それとも高次では止揚可能なものなのか。「会社勤めのジャーナリスト」という言葉は自己矛盾しているのか。そんなことを考えてしまうメールを受け取った。
でもくさりもしないし諦めもしない。私の存在証明は「知ること」、そして「知らせること」。どちらかというと前者に重きがある。知って知って知りまくる。知らないことがあると気持ち悪い。ここネパールに来て、南アジアの事がかなり分かるようになった。日米、東南アジアときて南アジア。少しずつ、少しずついろんな人間を知る楽しみ。次は西アジア?Nobody knows。
筋肉少女帯に「日本印度化計画」という曲がある。「日本を印度に/し〜てしまえ!」と大槻ケンヂの叫びで始まる。でも日本はすでにインド化している。働く喜び、働く意義、働くおもしろさをないがしろにする風潮。それはバクシーシを強要するインドの物乞いに似ている。私はインド人にはとてもなれないから、またあすも働く。またあすも新しい事を知る。またあすも新しい1日を生きる。
ついでながら、5日の日記への反響がすごい。これほど1日の記述に反応があったのも久しぶり。まだのあなたも一言どうぞ。
きょうネパ
カロ=黒。ストレートティーは「カロチヤ」とも言う。黒い茶。確かに。
8月7日 素直さ
昨夜早い段階では遠雷だと思っていたら、未明になってものすごい雷雨になった。そこらじゅうに落ちているのではないかと思う稲光と大音響。朝起きて聞いてみたらThakurも怖かったと。私は平気。コンセントにつないでいたパソコンの電源を抜いただけ。パソコンが壊れるのが怖かっただけ。
朝からREDPのセミナー。しかしやはりネパール語オンリー。いろいろ経験させてくれるのはありがたいと思うべきなのだろうが、内容がさっぱり分からないのでどうしようもない。しかも私には片づけるべき課題がまだある。こんなところで無為な時間を過ごしているわけにはいかない。Thakurにかけあって、何とか早く帰してもらう。
セミナー会場に行く途中、ヒマラヤがきれいに見えた。ランドクルーザーの荷物席に座りながらずっと見ていた。ポカラへの出張からきょう帰ってきたShekarも、「マチャプチャレがきれいに見えていた」と言っていた。そろそろ雨期も終わりらしい。日差しは相変わらず強いが、空気に澄んだものを感じる。空を見上げれば、うろこ雲や絹雲が多くなってきた。確実に時は過ぎている。
日本では就職戦線第2陣がいよいよ迫ってきた。ネパールまで来てメールで後輩の書類などを見ている。現在2名とコンタクト中。うち1人は反応も早いし飲み込みも早い。これまでもいろいろ悩んでこの道を決めただけに、腹が座っているというか。しかしもう1人はまったく素直さがない。「ここはこう直した方がいい」とアドバイスしているのに、次に来たメールでは一言一句変わっていない。「こういう行動をした方がいい」と言ってもまったくやる気なし。これでは無理。聞く耳持たないというのでは、社会のどんなところでもうまくいくわけがない。まずは他人の話に耳を傾ける素直さ、それを偏見や先入観なくすんなり受け止める素直さ、そして自分の思うところ、やりたいことをはっきり言える素直さ。そんな素直さを忘れないでいたいと、後輩の姿を見て思う。
きょうネパ
ポカリ=池。ネパール第2の観光地ポカラの地名はここから来ているらしい。
8月6日 遠雷鳴りやまず
57年前の今朝、広島に原爆が投下された。小学6年生の時、平和学習の一環として広島市を訪問した。その時に感じた一種の怒りが、自分の中に何かを生み出したような気がしている。その怒りはまだ燃えている。もう消えることはないだろう。あんなものを落としておいて、「自国の多くの青年の命が救えた」などとしゃあしゃあと言ってのける国、そしてそれに反論できない国。自国内のプロパガンダを国外に押し付けても平気な国と「唯一の被爆国」と言うことしかできない国。どちらも愚かだ。
あす、REDPの全地域の代表が集まって夏のセミナーがあるらしく、そのためにいろんな人が朝からカトマンズに集結した。TanahunのSuraj、BaglungのMegesh、そしてKavreのAjay。みんなもう友達だ。Surajは相変わらず何か急いでいるし、Megeshは相変わらずオカマっぽいし、Ajayは相変わらず注意力散漫だ。しかしみんな向こうから気づいて声をかけてくれるのがうれしい。彼らもあすプレゼンするようだ。そのため私の使っているPCが占有されて原稿がちっとも書けなかった。ま、彼らの方の仕事が優先だから仕方ない。その代わりに自分の仕事をさせてもらった。
夜はThakurの家にREDPのスタッフが集まってパーティ。Thakurの新居おひろめの意味もあるようだ。しかし会話はすべてネパール語なので、席にいても何だか窮屈だ。だからといって退席することもできない。ここに住んでいるのだから。ときおり、だれかが気を遣って英語で話しかけてくれるが、それもいっときのこと。疎外感とはまではいかないが、「なぜ私はここにいるの」状態が少し続いた。夜間外出禁止令が出ているおかげで、こういうパーティは長続きしない。しばらくするとみんな帰っていった。
秘密の計画の準備がほぼ完成した。あとひと手間かけてその日を待つだけ。うしし。
きょうネパ
パト=道。アルファベットのつづりを見るとpath。これも英語から来たのか?
現実はあまりに苛酷で残酷だ。
携帯電話の着信音だ写メールだとそんなものばかりにうつつを抜かしていらっしゃる国の民からは想像もできない現実が、何の改善策も取られないままに放置されている。自分のせいではないのに、自分に降りかかった不幸。その不幸がほとんど回復不可能なことを知った時、その人の人生はどうなってしまうのだろう。
そんな現実を日本人は知らない。いや、知らないふりをしているのだ。知ろうと思えば何でも分かる。今の日本には情報があふれているのだ。しかし知ろうと思わなければ何も知らないままで終わる。情報の量があることに安心して、その質は問わない。確かにあればあったで便利な情報だが、何のための情報か、その肝心な所がすっかり抜け落ちたまま。そして「知らないこと」が普通になる。
コンビニエントな情報が多すぎて、その情報で心を動かされることはあまりない。怒りも悲しみも喜びも忘れてしまった日本人。表面的ではなく実質的にも「能面のような顔」になりつつある日本人。
車イスの生活を余儀なくされているイギリス人が残したという言葉を紹介しよう。
- Many people are able to walk, but they do not know where to go
- Many people are able to hear, and nevetheless they understand nothing
- Many people are able to see, but they recognise nothing
- Many people have a voice, but nothing to say
- Many people have a heart, but they do not know what it beats for
自信を持って「私は違う」と言い切れるか。私はどこへ行くのか、何を聞き、何を見ているのか知っている。言うべきことがあり、なぜ心臓が鼓動しているのかを知っている。そう言い切れるか。
routineの日常を事無く過ごし、そこそこの幸せとほどほどの感動があればそれでいいのか。「何も苦労がないこと」が幸せなのか。職場の人間関係も上々、時には友達とおいしいものを食べ、年に数回は海外旅行に行き、素敵な彼/彼女がいて、家族はみんな健康、いい車も持っている。それで「私ってば幸せ」とそう思えるのは「無知」だからだ。そしてイギリス人が指摘したように、自分の与えられた能力をフルに使っていない。その意味では「無能」でもあり、「不能」でもあるのだ。
大量の情報に慣らされ、「想像力」を失った人間。それはもはや人間ではない。日々を単に生きるだけの日めくりカレンダーのようなものだ。人生最後の日を迎えたとき、最後の1枚をめくったその時になって初めて何も残されたものがないことを知るのだ。日めくりカレンダーは減っていくのが分かるけど、人生はそうではない。気づいたら最後の日。その時に何も残っていない空しさは取り返しがつかない。
他人の苦しみを想像すらできない人間。痛みを極端に恐れる人間。だから他人の苦しみを知りたくもないしましてや背負いたくもない。共に背負えば1人当たりの苦しみは少なくなるのに、自分はゼロ、他の人は1でよしとする。自分は痛くないから。
他人の苦しみも背負い、肩から血を流しながら、目から涙を流しながら、鼻から鼻汁をしたたらせながら、それでも人間のために何かできたこと、苦しんでいる人のために何かできたこと、それを自分の人生の確実な航跡として残していく。知らないなら教えてやる。しっかりついて来い。
きょうネパ
アーンティ=おばさん。英語のauntから来ているのか?それとも偶然か?
8月4日 街でよく見かけるあいつ
ネパールで一番よく見かける広告は、コカコーラでもタバコでも酒でも、ましてや電化製品でもない。車でもないし化粧品でもない。どんなへんぴな村に行っても必ず見る広告。それがこいつ。
ネパール語だけなのでよく分からなかったが、おそらく家族計画かAIDS予防のものだろうと思っていた。家族計画関連のNGOにいたこともあるShekarに聞くと、やはり後者だという。爆発的ではないにせよ、ネパールでも徐々に広がりつつあり、社会問題化しているらしい。
それはいいのだけれど、右側にいるコンドー君。なぜ腕組みをして胸(?)を反り返らせているのかよく分からない。左足を半歩前に出している理由もだ。写真では分かりづらいが、その表情は不敵でさえある。もっと言えば不気味でもある。これじゃあ、買おうという人まで買えなくなるのではといらぬ心配までしてしまう。かわいくする必要はさらさらないけど、憎たらしい顔をさせる必要もなかろうに。
タバコでは「ヤク」「ククリ」というネパールらしいネーミングのものが人気らしい。路上のタバコ売りでも店でもレストランでも1本から売っているのがおもしろい。レストランのメニューに載っている時すらある。レストランで頼んだら小さな皿に乗ってうやうやしく出てくる。私は吸わないので、味については不明。
コーラ対ペプシはコーラの圧勝。ペプシは時々見かける程度。いずれにしても味の差は分からない。ネパールの人は炭酸に弱いようで、かなり「シュワー」感がない。気の抜けかけたコーラのようで、暑い日にぐびっと一杯やりたいこちらは欲求不満。カトマンズではだいたい12ルピー。観光客が多いところはもう少し高くなる。田舎に行くほど高くなる。運送が大変だからだろう。缶はほとんどなく、あるのは250ミリリットル入りの、そう昔よくあった細身のビン。キンキンに冷えていることもあまりない。それも欲求不満のたね。
一応、少額のものはコインもあるのだが、圧倒的に流通しているのは札。1ルピーからきちんと札がある。ユニークなのは25ルピーという札があること。しかし時々というかかなり頻繁に、汗なのか何なのかよく分からないものがぎっちりと染み込んで表面が読みづらいような札もある。握るとかすかに湿気があるような。丁寧に使っているというべきか、更新を怠っているというべきか。
路上の変わった商売に「体重測り屋」がある。路上に座り込んで、その前に家庭用の体重計。ぼけーっと客が来るのを待っている。そんなもの商売になるのかと思うが、家庭にはあまり体重計がないらしく、ときおりおじさんが体重計に乗っていることもある。女性が乗っているのを見たことはない。しかし、体重を気にして生きているようには見えないのですけれど、皆さん。
ふくよかさが豊かさの象徴であるこの国。Thakurも以前、「君は痩せすぎ。もっと太って帰ってもらう」と大胆不敵な宣言をして以来、さかんに私にダルバートのお替わりを勧める。しかし野菜中心で、しかも1日2回しか食べない食習慣で、よくあれだけ太れるものだと感心する。テンプーに乗ってきただけで急に狭くなった気がする人がなんと多いことか。
小ネタ集第2弾という感じで、街で見かける物特集でした。
きょうネパ
アリカティ=a little bit。「あ・り〜〜かてぃ」のように発音して、「り」のところで声を裏返せばあなたもネパリ。「ご飯、そんなにいらんて」という時にどうぞ。
8月3日 頑張ったきょう
朝から行動開始。昨日1日をまったく生産的に過ごせなかったので、その仕返し。だれに?
ひょんなところでばったり日本人2人に会う。1人は高校が同じ、1人は大学が同じだった。何という縁でしょう。これで気分が良くなり、オフィスに行くべくバスに乗る。いつもと違う道だったので、どこで降りようかと思っていると、ぴんとひらめくものがあり、慌ててそこで飛び降りる。するとやっぱりオフィスに一番近い場所だった。何だかきょうは気分がいい。
オフィスでも何とかきょう予定していた部分の原稿を書き上げる。あとは結論を書いて、summaryを書いて、体裁を整えて、それからそれを元にもう1本原稿を書くだけ。「だけ」っていっても結構あるな、これでも。
少し早めにオフィスを出てタメル地区へ。きょうは服を探していた。一周りしてそろそろ帰ろうとかと思ったときにいい感じの青色の服を見つける。思ったよりも値切れたし。ま、もっと値切れそうだったけどきょうは気分が全体的にいいのでこれでよし。さっそうと帰る。
テンプーに乗ると、それは私が降りる場所までしかいかないものだった。こんなことはほとんどない。いつものごとく雨が降ってきたけどそれもまたよし。
家に帰ると、Pratimaの妹夫婦が来ているからと、いつもより豪華な夕食。タルカリ(カレー)が4品。しかも鶏と羊のそれぞれの肉が入ったタルカリ。肉でさえ1週間に2回ぐらいなのに、いっぺんに出てきたのは初めて。風邪がかなり良くなってきたのもあって、久しぶりにおいしく夕食をいただく。
たくさんの方から「大丈夫?」メールを頂きました。ありがとうございます。腹筋は相変わらず痛いけども、咳の回数もかなり減って、身体もだいぶ楽になりました。これで咳さえなくなれば完治でしょう。私にはあと数日で風邪を治さないといけない事情があるのです。早く、早く。
きょうネパ
カウリ=カリフラワー。頭の「カリ」から来ているらしい。結構単純。このカレーもメジャー。
8月2日 頑張れないきょう
夜中、いよいよ咳がひどく、隣の部屋のShekarも寝られなかったようだ。済まぬのう。
だからか、朝だれも起こしにも来ない。起きられないし。結局、半日休むことにして、ベッドに横たわったまま。朝食も食べられない。そのまま10時頃まで。Shekarがやってきて、「食べないと弱くなる」(直訳)と言われ、少しだけダルバートを食べる。咳のしすぎで腹筋と腰の辺りが筋肉痛。弱っちいのう。
昼を過ぎても回復せず、半日どころか1日を休みにしてしまった。汗もたくさんかいた。Tさんからメールで風邪、特に咳に効く方法をいろいろ教えてもらったので、ここネパールで実践可能なものを試してみよう。ありがたいのう。
することは結構いろいろあるのに。風邪なんかでダウンしている暇はないのに。と、自分にプレッシャーをかけてみる。すると身体も反応するのではないかと期待しつつ。NYではどんな生活をしていても風邪なんかひかなかった。日本でも。怠けているからか。あかんのう。
と、段落末尾で韻を踏んでみました。結構余裕あるでしょ。1日寝たのでだいぶ回復。確実に昨日よりは良くなっている感じがする。咳さえ収まればなあ。じゃまっけな咳。
きょうネパ
マカイ=トウモロコシ。今が旬か。道端では炭火で焼いて売っている人もたくさんいる。きょうのカゼ(not 風邪)がマカイだった。
8月1日 クスリ攻め
相変わらず咳が止まらない。間欠的に激しくなるので、会話をしていても中断せざるを得ない。家に帰ってからも体力を温存するために早々にベッドに横になる。おかしいなあ。日本から持ち込んだパブロンを飲んでいるのだけど、ちっとも効かない。何かを食べている時、飲んでいる時、その瞬間だけは咳がないけど、少しするとまた発作のように咳が出てくる。
こんな私を見かねて、ここのところよく行動を共にしているShekarがいろいろと面倒を見てくれる。まずはお湯に塩を溶かしたもの。これでうがいしろと。殺菌のようなものですか。しかし上を向いてうがいをしようとしたら咳が襲ってくるので、なかなかうまくできない。困った。
そして胸に塗るヴィックス。これで鼻の通りも良くなるのか。しかしあんまり効いてないようだぞ。それを察したのか彼は製造国を調べている。あ、日本製だ。あかんやん。
最後は「咳にはこれ」と言って出してきた「Meryl(メリル)」。シロップ。こいつはmade in Nepalだ。大丈夫か、怪しくないか。それを察してまたもや彼。「これは低容量だから日本人にも大丈夫。でもこれでだめなら高容量のものしかないな」って脅さないでちょうだい。しかしそれを飲んだ瞬間からまたひどくなってきた。こいつもあかんのか。
きょうになって微熱まで出てきた。平熱が低いので37度4分もあると、結構くらくらする。そういえば、2000年のシドニーでも同じようなことがあったと思い出した。あの時もつらかった。精神的にもぼろぼろだったし。あれは生活の不規則さと寒さが原因だとはすぐ分かるけど、このネパールでなぜ?緊張感の欠如か。
インターンも早いものであと1週間。来週の金曜日でおしまい。この咳と頻繁にある停電のおかげでなかなか原稿も進まない。停電のたびにPCが止まるから。そんなことも言っておれない。有終の美を迎えるべくあしたも頑張ろう。おー!
きょうネパ
ラムロ=木
7月のネパール
6月のネパール
この人、ふだんは何しているヒト?