8月10日(1日目) ネパール脱出、いざ1000キロの旅へ
夜半からかなり激しく雨が降っている。それでもきょうはTibetへの出発の日。5時45分に近所でバスに拾ってもらう予定だったので、指定のポイントで雨を恨みながらバスを待つ。案の定、かなり遅れて6時半ごろに来たバスは満席。2つしか空席はない。ざっと見て欧米人が多い。
霧なのかガスなのか、ともかく視界の悪い中を東へ、アルニコ・ハイウェイを進む。途中、デュリケルのホテルで朝食。外れがないはずのチヤを頼んだら薄くてバツ。期待せずにコーヒーを頼んだら、こっちの方がましだった。
一行の中に、日本語が話せるイギリス人女性ヒラリーがいた。東京で英語を教えているという。もうイギリスには帰りたくない、日本で暮らすという。その他に日本人は3人。ということは26人のうち、日本人4人、日本語人口は5人。
デュリケルからは北にそれ、中国との国境の村コダリを目指す。雨は小降りになってきたが、道が悪くなかなか進まない。ハイウェイなんてちゃんちゃらおかしい狭い未舗装の道をぐらぐらと揺れながらバスは進む。
正午ごろ、コダリ(標高1750メートル)に到着。バスが止まった瞬間、老若男女が喜色満面で走り寄ってくる。しかし歓迎の儀式ではない。荷物運び志望者たちだ。カトマンズから来たバスはこれ以上先には進めない。したがって少し歩かなければならない。私たちの一行の中でも数人が荷物を預けていた。棒1本を横に渡しただけのゲートを越え、ゲストハウスの食堂で昼食を食べる。その間にガイドがネパール出国の手続きをするという。手に札束を持った両替商が数人、食事をする私たちの間を歩き回って両替に励んでいる。10ルピーが1元(ユアン)、もしくは1米ドルが8元のレートだった。
パスポートが返ってきたので、歩いて少し進むと中国との国境の川にかかる橋に出る。そこにある門には漢字と五星紅旗。あまり実感は湧かないがここから中国だ。橋のたもとにいる係官にパスポートを見せる。しかし何をチェックしているのかよく分からない。そこを抜けると右側にバラックの商店が並ぶ。品ぞろえ、そして売り子はすっかり中国だ。箸で昼ご飯を食べている人を見る。川の向こうは手でダルバートなのに。
ここはあくまで国境というだけ。入国管理や税関などはここから9キロ離れたZhangmu(ダム、標高2350メートル)という名の町にある。しかしここからは急な山道。しかもぬかるみ。ということで大きなトラックがやって来た。荷台に乗れという。頼りない細い鉄パイプにしがみながら、がけからトラックが落ちないこと、自分が振り落とされないこと、荷物が飛んでいかないことをひたすら願いながら山道を上がる。
コダリから見るダムは、山の中腹にあるTibet式の町並みが印象的だった。しかし町に入ってみるとそんな感傷はふっとぶ。まず通関のための長い列。なぜか日本語を話す係員。そしてその先で手ぐすね引いて待っている両替商のおばちゃん軍団。黒っぽい服がチベット風なのだろう。またしても札束をみんな持っている。ここでTibet側のガイドと運転手に迎えられ、一行はマイクロバス隊とランクル隊に別れる。マイクロバスは人と荷物で満杯。重そうに山道をさらに登って走る。中国はあれだけ大きいのに標準時が1つしかない。日本から1時間遅れ。つまりTibetとネパールの時差はネパールが2時間15分遅れ。時計を進める。
森林限界を越えているのだろう、木はほとんど見かけない。岩と背の低い草だけの風景の中をしばらく走る。暗くなって景色も見えにくくなった午後7時ごろ、カーブを曲がったらNyalam(ニャラム、標高3750メートル、写真)が突然現れた。簡素なゲストハウスに入る。5人1部屋。私はソファベッドだった。1日で2000メートル程度の標高を上がったので、少し動くと息が切れ、動悸がする。1月のペルーの経験は生きているのか。
日本人4人で食事。簡単な中華料理だが、安心している自分がいる。食べ慣れたものを食べられる安心感だ。
しかしこの町は何で食べているのか。町の周りにも畑は見当たらない。こういう観光客相手の町としか思えない。かなり東の北京時間が標準時のため、体感と合わない。午後11時といっても太陽の動きの感覚ではあくまで午後9時ごろ。町は遅くなってからにぎやかになってきた。体力を温存するために早めに就寝。窓の外では川の音がすごい。
Tibetに行くためにはかなり煩雑な手続きが必要だ。その主なものは以下の通り。
- 中国のビザ。その手続方法がころころ変わる。今回の私の場合、外国人がTibetへ行く目的で申請すると却下されるとのことで、旅行会社からは「上海へ行くと言え」と言われた。また旅行社による代理申請はだめで、本人が申請しなくてはいけない。そのためインターンの時間を少し削って窓口に並んだ。非効率な職員の仕事ぶりもあって、申請するだけで2時間は見ておくべき。受理までは急いで5日間。月曜に申請して金曜日受け取りが最速。
- 入境許可証。中国政府はTibet自治区内での外国人観光客の自由旅行を認めていない。そのため、旅行社を通じてツアーに参加するしかない。カトマンズのタメル地区を歩けば、「Tibet Tour」という看板をいくらでも見かける。5人以上のツアーに対して入境許可証が発行される。
- 旅行社。いくらでもあるだけに見極めが難しい。時間が許せば1軒1軒回って比較することも可能だが、ビザを取るのに1週間かかるので、そんな余裕のないこともあるだろう。私は土日を使って徹底的に比較した。
ツアーの内容は様々。大きく分けて、松竹梅。松は飛行機でLhasaに入り、周辺を観光して飛行機でカトマンズに戻るもの。料金は1000米ドル以上。竹は車でLhasaに向かい、飛行機で戻るもの。500ドル台後半から600ドル台半ばぐらい。この2つは7泊8日。梅は150ドル前後と格安ながら、かなり根性の入っている人向き。宿はすべてドミトリー、朝食はなし、拝観料もなし。帰りの飛行機代もなし。これは4泊5日コース。Lhasaまで連れていくだけのツアーだ。
私はホテル代、交通費(マイクロバス)、ビザの申請代30ドル、すべての朝食、いろんな寺の拝観料など込みで計550ドルという竹コースを選択。
旅行社1社でやっているツアーはむしろまれで、5人以上という人数をまとめるために、複数の旅行社が相乗りしてツアーを組む場合がほとんど。従って同じ日程、同じ食事、同じコースをたどって同じバスに乗っている人でも、払っている金額はかなり差がある。旅行社の手数料の差がそのまま支払い料金になるからだ。私の知る限り、550から650ぐらいまでの差があった。
また、ランドクルーザーを使うと30ドル程度の上乗せになる。バスより早いからだ。しかし今回の私が参加したツアーの場合、ランクル2台とマイクロバス1台が一緒に移動した。ガイドがマイクロバスに乗っていたため、ランクル組は何の情報もないまま車に乗っている状態だった。しかも窓が小さいため景色も見づらい。1台に5、6人乗るので、真ん中に乗ってしまうとさらに見えない。ランクル組から順番にマイクロバスの空いた席に乗りに来たほどだ。つまり、よほどの悪路でない限りわざわざランクルで行く必要性もない。
今回、一番不条理に感じたのは、竹コースと梅コースの人が混在していたことだ。一緒にバスで移動しながら、さてホテルに着いたら600ドル前後払った人はツインルームへ、150ドルの人たちはドミトリーへと別れる。どうせなら分ければいいのに。「ホテルなんて夜露をしのげればいい。飯も自分で調達する」といういわゆるバックパッカーはそれでいいと思われそうだが、しかしここは低地ではない。最高で5200メートルという峠を越え、5日かけてLhasaまで行くツアーだ。単純に安さだけで決めない方がいい。
8月11日(2日目) High Altitude Sicknessと闘う
夜中、割れるような頭痛で起きる。もんどりうちながら寝やすいポジションを探すが、どうしても楽にならない。深呼吸をして酸素をできるだけ取り込もうとするが、それでも効き目がない。High Altitude Sickness(高山病)の代表例だ。トイレに行くも、途中の階段がまたつらい。眠りの浅いまま、出発時間ぎりぎりまで寝る。
8時過ぎに出発。朝食を食べる時間もなかったので持っていたカロリーメイトで済ませる。写真は途中の菜の花畑。頭痛はかなりましになったが、やはり寒い。とても8月とは思えない気温だ。10時半ごろにラルン・ラ(ラは峠の意、5050メートル)に着く。ペルーでは4335メートルが最高だったから、それより700メートル以上高い。その割にはそれほどの感じはしない。ただ多少の頭痛と寒さはある。
そこから少し下り、1時前にTingri(ティンリー)に到着。昼食を取る。ネパールとLhasaを結ぶこの「中尼公路」の両わきに少し民家がある程度の村。少し歩くとすぐに村を外れる。小さい村だけに村人の服装もいかにもチベット風。黒っぽい服にトルコ石やサンゴの髪飾りや首飾り。写真を撮ろうとすると絶対に嫌がる。宗教的に禁忌でもあるのか、それとも単にシャイなのか。写真を撮れとうるさいネパールとは大違いだ。
ゆっくりと休み3時頃に出発。この中尼公路はほとんどが未舗装。特にこのティンリー以降は砂ぼこりがすごくなった。やっと直りかけた喉の調子がまたおかしくなってきた。咳が出る。
4時半ごろ、中尼公路の最高点、ラクパ・ラ(5250メートル)に達する。風が強く、体感温度はかなり低い。バスの外にいるのがかなりつらい。頭痛と悪寒で、はっきり言ってこの峠の印象がほとんどない。それだけ身体がつらかった。そこから下りて1時間ほどで検問。峠ほどではないにせよ、風は冷たい。そこからきょうの宿泊場所まで1時間とガイドは言ったが、1時間たっても町らしきものはない。
7時半ごろ、ようやくLhatse(ラツェ、4012メートル)に着く。これまでよりは大きな町。だだっぴろい大通りが寂しく町を貫いている。宿は3人部屋だった。それまでバスの中で悪寒がしていたので上着を着たまま、靴下もはいたままベッドに転がり込むが、悪寒はなくならない。それどころか首のあたりが熱っぽい。どんどん寒くなる。ガイドはTibetの高山病の薬をくれる。しかしこれはどう考えても高山病ではない。風邪だ。とにかく水分を取りながらベッドでうんうんうなる。頭痛はあるが、高山病なのか風邪なのか分からない。なにせ富士山の山頂より高いところで活動しているし、今回のルートの最高点を含め、5000メートル級の高原を朝から11時間も移動しているのだから、おかしくならない方がおかしい。
21歳の沢井君が夕食で食べたうちの豆腐スープと冬瓜スープを運んでくれた。すぐには食べられず、少しずつ様子を見ながら食べる。すると少し調子もよくなり、トイレに立つ。宿の中庭では現地の人たちが輪になってフォークダンスを踊っていた。ステップに特徴があり、でかいギターのような楽器1つにみんなが声を合わせて歌いながら踊っていた。それを少しだけ見てまたすぐベッドに戻る。なぜこんなに身体が弱っているのだろう。そんな自分を呪いながら、頭痛と闘う。
8月12日(3日目) パンチェン・ラマ
8時過ぎに起床。気分はかなりよくなっている。一晩でよくぞあの感冒を治したものだ。冷たい水で顔を洗うと気持ちいい。9時に出発し、10時ごろにツォ・ラを越える。しかしここはたったの4500メートル。写真を撮りたいと思う場所でもなかった。石を積み上げたものの上にチベット仏教の旗タルチョがはためくだけの峠だった。
2時頃にTibet第2の街Shigatse(シガツェ、3900メートル)に到着。「ここからはまともなホテルに泊まれる」との旅行会社及びガイドの言葉通り、ツインベッドでバストイレ付き。もちろんホットシャワーもある。建設途上だが、ま、普通のホテルという感じ。ユニークな経歴とキャラクターを持っているヤスさんと同室になる。
昼食後、ホテルから歩いてタシルンポ寺へ(写真)。ダライ・ラマとともにチベットの人々の崇拝を集めているパンチェン・ラマがいるところだ。ここまでの道中でも、レストランやホテル、一般の商店などにパンチェン・ラマ10世の写真が飾られていた。しかしそれも単純ではない。現在のパンチェン・ラマは11世。しかし一般の場所で11世の写真を見ることは少ない。なぜなら11世はTibetanが選んだ者と中国政府が選んだ者の2人が並列しているからだ。Tibetの人々が10世の写真を飾るのは、自分たちが選んだ11世を表立って崇拝できない状況で、かといって中国政府が選んだ11世を承認できないジレンマの表れに思えた。
先代10世だけは特別扱い。それまでのパンチェン・ラマは1〜3世、5〜9世が合祀されているのに、10世の霊塔は中国政府が10億円をかけて作ったという。このあたりにも政治を感じさせる。
Tibetの民家や寺は横のラインが基調。天へと伸びる縦のラインが特徴の西洋のゴシック様式と好対照で面白い。タシルンポも同じ。山すそにずらりと広がる建物群。それぞれのある高さは違うし建物自体の高さも違うが、横の平行線が統一感を感じさせる。
タシルンポで遊ぶ子供を撮ろうとしたら、急にまじめな顔になった。しかしTibetanを撮影できる方が珍しいから慌てて撮ったのがこの子。本当に日本人そっくりだ。日本人がTibetanに似ているんだけど。
同寺のそばにあるホテルからヤスさん、ヒラリーとでタクシーに乗る。タクシーがあるのも第2の街ならでは。これまではあっても乗り合いトラクター。ここでもトラクターは日常生活の足として走っているが、他に公共バスもあるしオート3輪タクシーもある。これはバイクの後部にリヤカーをくっつけたようなもの。カトマンズのテンプーみたいな存在だ。それはともかくタクシーはすべてフォルクスワーゲン製。そいつに乗って繁華街へ。信号機にはカウントダウンが付いている。それでも待ちきれない車は赤信号でも突っ切って行く。意味ないやん。何かの祭りか、露店が並んでいる道路をしばらくひやかしてレストランに入る。しかし量が多くて食べきれない。早々にホテルに帰って休む。
8月13日(4日目) 旅は道連れ
未明に頭が痛くなり起きる。日中は自分で呼吸を調整できるが寝ている間は自律神経に任せるしかない。それがふだんの調子で呼吸するものだから、どうも寝ている間に酸素が足りなくなり、頭痛になるようだ。水を飲んで深呼吸をしばらくして頭痛をおさめる。1300メートルのカトマンズから3700、そして5200、4000と標高と気圧の変化が激しいから、身体の方がまだ追いついていないのだろう。高山病を治すというよりも、高山病とうまく付き合う方法を編み出すしかない。あまりにひどければ頭痛薬を飲むが、しかしそれでかえって無理をしても身体に負担がかかるだけ。かといって頭痛がひどければ観光どころではない。そのバランスが難しい。
きょうは移動距離が日程中で一番短い日なので、体調を調えるチャンス。10時頃に出発。街の前後だけ舗装道路があるが、それはすぐに終わり未舗装になる。ただ雨が少ないのでネパールの道のようにでこぼこはひどくない。しっかりと踏み固められた堤防の道のような感じで、マイクロバスも結構なスピードで走る。街の周りにはまた、樹木がある。自然には生えない高度だから人間の手で植林されたものだろう。天気は晴れ。するとこんな空になる(写真)。
1時半ごろにGyantse(ギャンツェ、3950メートル)に着。Lhasa、Shigatseに次ぐ大きさの街だが、タクシーはなかった。
ホテルに入ろうとしたら何やらもめている。何でもツインルームが3部屋しかない。それではとても全員を収容できないし、かといってだれを選ぶかで公平な手段もなかなかない。どうやら本来予約してあったホテルがオーバーブッキングらしく、このホテルに来たようだ。ドミトリー組は早々に部屋に入って、その部屋からギャンツェ・ゾン(城跡)が見えるとはしゃいでいる。これまで不遇をかこった意趣返しなのだろう、その部屋の前からもめている私たちを見下ろしてにやにやしているやつもいる。
仕方なく本来のホテルに行ってみようということになり、行ってみると部屋は充分に空いているという。何のこっちゃだが、とりあえず寝場所は確保できたのでよし。引き続きヤスさんと同室。3時ごろ、遅い朝食を食べてこの街の目玉パンコル・チョエデへ。Tibetで最大の仏塔がある寺だ。ただこのころから頭痛が再発した。しかも雲行きが怪しい。寺院内には教典がたくさん保管してある。アメリカ人が1つそれを開いたら、「サンスクリット語ではこう書いてある。それを訳すとこうなる」と出典をわざわざ引用して正確さを期しているらしい。このため、インド仏法の末期の姿をTibet仏教はまだ正確に残しているため、こちらから遡ってサンスクリット語の仏典を研究する人もいるという。
目玉の仏塔に登り始めると雷鳴とともに大粒の雨が降り出した。富士山の頂上より高いところでさらに階段を上っているのだから、頭痛がして当然。雨宿りなのか呼吸を整えているのか、休みながら上をめざす。雨はかなり冷たい。少し触っただけなのに、手がじんじんとしびれるほどだ。写真は仏塔の上からの眺め。そこからは流れ解散になったので、また歩いてホテルへ1人で帰る。
夕食後、私たちの部屋でヤスさん、沢井君、そしてもう1人の日本人ケイコちゃんとおやつパーティ。それぞれのバックグラウンド、なぜTibetに来たのかなどを語り合う。結構、ヘビーな話もたくさん飛び出した。ここまで4日間、あの峠、延々と続く道、数えきれないほどの仏像、仏画、仏塔。真っ青な空。重そうに頭を垂れる麦畑。どこまでも続く菜の花畑。氾濫した川、がけ崩れ、道路の流出。ほこりと太陽の光。そんな4日間を共有したという実感で、話しにくいこともみんな意外に話している。1時頃まで語り合う。
ドミトリー組の沢井君は先のホテルに帰って行ったが、すぐに戻って来た。ホテルを締め出されたらしい。ヤスさんの寝袋で寝ることになる。奇妙な3人同室。これもまた旅の1日。
8月14日(5日目) TibetではないLhasa
きょうは最後の難関が待っている。9時ごろ出発。いつものマイクロバスに乗り、いつものように未舗装の道をホコリを巻き上げながら走る。しかしきょうはいつもと違う。夕方にはLhasaにいるのだ。距離は結構あるはずだが、かなり頻繁に止まって「フォトタイム!」「ピーピータイム!」。後者はトイレ休憩。だれかが声を出せば止まるし、出さなくても適当な所で止まる。高山病対策としてみんな水分を取るようにしているので、トイレ休憩は大事。といってもトイレがあるわけではない。道端でみんなする。女性はかなり苦労する。物陰があればいいが、高原地帯で木もないようなTibetの道路で、そうそういい場所はない。女性同士で協力して毛布で囲いを作って順番に済ませたり、かなり歩いて姿が見えないところで済ませたり。
高原を抜けて上り坂を上がる。途中の小川は手が切れるほど冷たかった。それを越えると人造湖に出た。湖の中央の島に壊れた砦が見える。湖水はエメラルドグリーン。何となく神秘的な雰囲気。再度見晴らしのいい場所に出ると雪山が見えた。手前ではヤクが草を食んでいる。最後の5000メートル級、カロー・ラは5010メートル。少し手前に氷河(写真)があった。8月中旬というのに雪も降っている。かなり寒いが、氷河の迫力は満点。これは絶対に写真には収められないと思いながらシャッターを切る。
一気に下ってヤムドク湖のほとりの村Nangartse(ナンカルツェ、4450メートル)で昼食。頭が重い。昼食どころではないが、食べないと持たないので野菜ヌードルを食べる。しかし汁をすする行為でさえ頭に響く。高山病との付き合いはなかなか難しい。
ヤムドク湖は入り組んだ形をしており、かなり湖岸を走ってもまだ湖は続いている。ようやく上りにかかり、最後の峠カンバ・ラは4794メートル。越えた瞬間、運転手もガイドも叫び声を上げている。これでLhasaへの最後の難関を越えたからだ。うれしいのは分かるが、まだ曲がりくねった山道を下らないといけない。うれしいのは分かるがくれぐれも安全運転してくれと日本語でぶつぶつ言う私。途中でサスペンションもつぶれた。何とかLhasaまでもってくれと祈るばかり。
山を下りきった所からやっと舗装道路が始まった。大きな川沿いの道を走る。窓を閉めていてもホコリが入ってきて車内に充満するので、最後部の窓を少しだけ開けるように言われる。最後部に座っていた私は、その窓が振動で少しずつ開くので、荷物がそこから落ちないように窓の開き具合を調整する役。さらに最後列は荷物を積んであったので、がたがたバスが揺れるたびにずれ落ちてくる荷物を再度積み直す役でもあった。車内はホコリでいっぱい。ホコリと紫外線の両方で目が痛いのでかけていたサングラスの表面に積もるほどだった。そんな苦労もやっと終わり。
川沿いにバスはぶっとばすも、なかなかLhasaらしき雰囲気にならない。やっと大きな橋のところで道路標識が現れた。Lhasaまで67キロと読める。まだ1時間ある。かなり走ってようやく右側に小さくポタラ宮が見え隠れしだした。市街地に入るが、Tibetという感じはまったくしない。あふれる漢字。中国化がかなり進んでいて中国の一地方都市に見える。大通りには車がたくさん走っている。店には物があふれている。街を歩く人は携帯電話を片手に持っている。バスの中に同じ気持ちが充満する。「これはTibetではない」
Lhasaは標高3650メートル。富士山よりやや低いぐらい。きょうも高低差がひどかったので頭痛が再発する。こればかりはどうしようもない。ただきょう少し危ないと思ったのは鼻血が出たこと。脳内の圧力と気圧が違いすぎるのだ。これはあまり無理してはいけないと出歩くのを避ける。
夕食はヤスさん(写真右)、沢井君(同左)、ケイコチャンの4人で地元の人が使うような食堂で。小さな鍋に野菜やソーセージ、ギョウザなどを入れて煮込んだものがおいしかった。沢井君はこれでツアーがおしまい。あとは自力で動くしかない。握手をして別れる。力強い握手だった。ホテルに帰ってヤスさんと就寝前恒例になった語り合い。今夜はボランティアについて。1時ごろに寝る。
8月15日(6日目) どろぼう再び
午前中、ホテル近くのジョカンへ歩いて見学に行く。寺の中はバターランプを持ち、前後のすき間がまったくないほどに詰めて自分の参拝の順番を待つ人々の列が長い。そんな脇を観光客というだけでショートカットするのは何だか申し訳ない。
吐蕃の全盛時代、唐から嫁入りした王妃とネパールから嫁入りした王妃が協力して建てた寺という。寺の前には821年の唐蕃会盟碑もある。これまで回った寺で一番、信仰の熱を感じたところだ。おそらくTibet中から巡礼に来るのだろう。門前では五体投地を熱心にしている人が大勢いる。屋上に上るとポタラ宮がにょっきりと見える(写真)。そこで歌を歌いながら天井を固めている人たちの一団がいた。手には杖のようなものを持っていて、その先には円盤が付いている。足とその円盤とでリズムを取りながら何だか愉快にやっている。
ジョカンの周りは「バルコル」と言われる歩行者用の周回道路がぐるりとあって巡礼者が回っている。その巡礼者相手、観光客相手の露店もすき間なしに軒を並べている。仏具、カタという白い布、古民具、衣類、馬具、アクセサリー、そして土産物。何でもある。これまたヤスさんと地元人御用達の店で昼食を食べ、ホテルに帰る。
鍵を開けたら、見知らぬ男が立っている。一瞬、混乱する。掃除の人か?それにしては何もしないで突っ立っている。「What are you doing here?」と聞くも、中国語でしか答えない。とりあえず逃がさないように部屋の奥に追い込んで、私がドアを見張り、ヤスさんがレセプションに電話する。英語の分かる従業員が来て、私たちと男の間に入る。鍵は閉めていたこと、なぜ見知らぬ男が部屋にいられるのか、そんな話をしたら従業員は「マネージャーを呼んでくる」と飛び出していった。すぐに5、6人の男が来て、その怪しい男を連行していった。従業員の話では、2日前、同じ階の別の2室で荷物が開けられるなどの被害があったらしい。
とりあえず私たちに被害がないか確認する。私は大丈夫。しかしヤスさんの荷物が開けられており、リュックの一番下に入れてあってこれまでまったく使わなかった携帯用スプーン/フォークのうち、なぜかフォークだけが私のリュックのそばに落ちていた。スプーンは見当たらない。2人とも貴重品は持って歩いていたのと、おそらく彼が部屋に忍び込んだ直後に私たちが帰ってきたのだろう。まさか午後2時に部屋に人が帰ってくるとは思っていなかったのだろう。
事務所に来てほしいというので2人で向かう。事情を詳しく知りたいとのことで、英語で状況を書面にしてくれと頼まれ、私が書いてみる。男もそこにいて、取り調べじみたことをされていた。そいつはスプーンは持っていないようだ。眼鏡をかけていかにも小心者に見える。もしかしたら無実かもしれないとふっと思ってしまう。しかし、部屋に入った瞬間に彼は身振りで荷物が無事であることを伝えようとしていた。もし仮に彼が主張するように友達を探して部屋に入ってしまったというなら、荷物のことなど言わないはず。さらにその探しているという友達もこのホテルにはいないらしい。変なことが多すぎる。
最後に部屋を出たのはヤスさん。彼は鍵をしっかりかけたと言っている。もしかして開いていた窓から入ったか。しかし4階だし、仮に屋上から入ったとしてもかなり目立つはず。謎は多い。
3時からバスでセラ寺に行く。集会所で僧侶が問答をしていた。1人が2人の試験官の前に立ち、ときおり手で拍子を取りながら、出された質問に答えている。しかし他の僧侶はふざけあったりよそ見をしたりで、まったく集中していない。寺自体も面白いものではない。ジョカンを見たあとではなおさらだ。
ツアーのみんながほとんど参加してディナー。日本をはじめアメリカ、フランス、イタリア、スペイン、キプロス、イギリス、そしてTibetとばらばらだけど、何となく一体感もある。楽しく食事する。11時半ごろからみんなでダンスホールへ。地元の人が多いところで、最初は歌謡ショーみたいな感じ。バラード調の歌ではおもむろにみんながホールに出てチークダンスを踊っている。しかしそれも初々しいし、中には女性同士、男性同士で踊っている人たちもいて微笑ましい。曲が終わると恥ずかしそうにすぐ席に戻るところもそう。
零時ごろに民謡がかかるとそんな恥ずかしさを忘れてほとんどの人が踊りの輪に加わった。そしてその後はクラブミュージックがかかり、ディスコ状態。富士山の山頂でディスコ。考えたらすごい。1時ごろホテルに戻る。
8月16日(7日目) ポタラ、主のいない館
朝からLhasaで一番有名な建造物、ポタラ宮に行く。街の中心にある小高い丘の上に築かれた宮殿は向かって右側の白い部分が行政用、中央の赤い部分が宗教用。古代の吐蕃王国以来、初めてTibetを統一したダライ・ラマ5世の時代、1645年ごろから本格的な造営が始まった。完成は1695年。1959年にダライ・ラマ14世がインドに亡命するまで、ここはTibetの中心だった。
しつこいけれど、富士山の頂上からさらに階段を上ってまず白宮に入る。日差しも強く、結構大変だ。広大な建物群だが、見学できる場所はかなり限られている。階段を上りきってデヤン・シャルという広場。この脇にあるトイレは隠れた名所とか。高所恐怖症の人にはお勧めしないけど。
白宮にはダライ・ラマの執務室がある。なぜか歴代、同じ場所を使うということでもなく、「ここは何世」「こっちは何世」とそれぞれ用の部屋がいくつもあった。紅宮は仏像や立体マンダラ、歴代ダライ・ラマのストゥーパがある。しかしなんと中国人観光客の多いことよ。しかも彼らには「順番待ち」「列を作る」という感覚がまるでないし、どんな神聖な場所でも携帯電話で大声で話をするし、何というか気遣いというものがまるでない。狭い階段の上り下りや狭い部屋への出入りでかなり消耗していらいらしてくる。しかもこのポタラ宮には人の匂いがまるでない。博物館だ。いくら金銀財宝がすごくても、それで往時のダライ・ラマの権勢を知ることではできても、このTibetという国のことが分かるわけではない。ポタラ宮は外からながめるのが一番だ。
午後には郊外にあるデプン寺を訪問。Tibet仏教の最大宗派ゲルク派の中でも最大の寺院。これもまた山腹にへばりつくようにある。また階段を上ること多数。もういいけど、富士山の山頂で階段の上り下りをしている自分をほめてやりたい。中に1か所だけ、信者が押し合いへし合いして順番待ちをしている部屋があったが、それ以外は閑散とした寺だった。物乞いだけが目についた。小さな子供の写真を撮ろうとしたらはしゃぎながら必死で逃げている。Tibetの人は本当に写真に撮られるのが嫌なようだ。こんな子供でさえ。
帰りにダライ・ラマの夏の離宮のあるノルブリンカに少しだけ寄る。しかしもう体力はない。ホテルにいったん戻ってからバルコルを歩いて土産を探す。Tibetanは根っからの商人。関西人のこちらといい勝負をしている。こちらも駆け引きは別に苦ではないから、楽しみながら、結構こちらの言い値で売らせることに成功する。それでもかなりぼられているのだろうけど。
あすは早い。延泊するケイコちゃんとお別れをして寝る。
8月17日(8日目) 最後の最後
朝5時半にウェイクアップ・コール。6時半に出発。外はまだまっくら。ポタラ宮はうすぼんやりと闇に浮かんでいた。こういうポタラ宮の方が見ていて楽しい。Lhasa市内から最寄りのクンガ空港までは100キロ、2時間。飛行機が9時20分だから結構ぎりぎりのスケジュールだ。
20分ほど走ってようやく郊外に出る直前、バスがいきなり止まる。後部タイヤがパンクしたらしい。修理屋も来てタイヤを交換している。これに30分。みんな時間が気になるがだれも文句を言わない。これくらいはあると思っているし、何とか飛行機に間に合えばいいのだから。
気を取り直して再出発。しかし時間を食った割には運転手は飛ばす気配がない。次々に後ろから抜かれていく。おかしいな、もっと飛ばさないと間に合わないのではないかと言っていたら、バスが急に振動して路肩に停車。またパンクか。外に出ると先ほど替えたばかりのタイヤがパンクどころか破裂している。これにはみんな焦った。慌てて道路を走っている別の車を止めようとするが、なかなか止まってくれない。しばらくして空港に客を迎えに行く空のバスが止まってくれた。みんな必死だ。特にカトマンズで接続便がある人は、このフライトを逃すわけにはいかない。バッグを持って走り、新しいバスに乗り換える。ほんと、最後の最後まで何があるか分からない。
結局、出発から2時間15分ほどで空港に到着。中国人の係官の手続きが遅くて助かった。まだ間に合う。長い列に並ぶこと数回。中国人の横入りに抗議し、嫌な思いをすることも。やっと待合室に入ったらどっと疲れた。
飛行機はかなり遅れて中国時間の10時5分に出発。中国西南航空。ロイヤルネパールと違ってかなりwesternizeされており、機内誌もある。しかしそれよりもこのフライトのもっと大きな目玉はヒマラヤ山脈。トレッキングをしない私には、チョモランマ(サガルマータ)を見る最後のチャンス。うまく進行方向右側の窓際の席も取れた。最初は左側に雪山の頂が見えたが、30分ほどで右手にチョモランマ。白く雲から突き出す頂上が素晴らしい。満足できる光景だった。
時間通りネパール時間の9時ちょうどごろにカトマンズ到着。私のビザは1回限りのものだったので、ここでビザを再取得。30日間有効で30ドル。しかしまずビザ申請で長い列、ビザ代払い込みで長い列。入国したら税関の職員もいない、回転テーブルも停止、そして客待ちのタクシーさえ数が少なかった。なんでこんなに非効率なんだ。
ヤスさんの旅行社が迎えに来ていたのでそれに同乗させてもらい、Thakurの家に帰り着く。ちょうど朝食を食べていたPranavとParthが飛びついてきた。ただいま。
参考情報
- 「地球の歩き方 チベット編」はまったく役に立たない。情報が不正確。多くの寺で懐中電灯必携と書いてあったが、そんな寺はほとんどない。電灯がかなり普及している。地図も不親切。あまり必要でない情報が多すぎて、肝心のTibetのことは何も分からない。アムド地方の情報にページを割きすぎ。巻末に会話集があるが、中国語の発音がないので、中国人と話する際に役立たない。多くの中国人はチベット語を解しないのだから、より共通語である中国語の発音の方が有用であるはず。写真もだぶりが多く、スペースをつぶすために使っているとしか考えられない。ともかく「歩き方」は役に立たない。本当に旅行した人が書いているのかと疑問になる。
- 買うなら「旅行人ノート チベット」をお勧め。値段も「歩き方」とほぼ同じでもっと情報が詰まっているし、何よりネパールやブータンなどチベット文化圏に入る国の情報も同時に網羅しているので便利。ヤスさんが持っていてかなり使わせてもらった。
- 必携は、サングラス、リップクリーム、日焼け止めなど日照対策。のど飴、うがい薬などのどを守るもの。高山病に特効薬はないけど、気休めに頭痛薬、せき止め、熱冷まし。体調の変化が大きいので、風邪薬、下痢止め。円より何より通用するのは米ドル現金。少額紙幣を多めに。
- そんなにいらないもの。懐中電灯。水筒。「歩き方」には水筒必携とあるが、今やどこでもミネラルウォーターは手に入る。Lhasaで1.25または1.5リットルでだいたい4元(約60円)。地方に行くほど高いが、しかし100円程度であることは変わらない。わざわざ水筒を用意するほどのことはない。中国の「六甲の水」もしくは「エビアン」は、写真の「ワハハ」。この杭州の企業、なかなかやり手で、コーラやヨーグルト飲料など幅広く手がけていてどこでも製品を見る。旅行中に大変お世話になりました。
- 来る前に若干の仏教の知識があった方がよい。それもTibet礼賛ものではなく、仏教の中でTibet密教がどういう位置にあるのかを知ろうとする方針で情報収集すればいい。
- ダライ・ラマ14世とパンチェン・ラマ11世のことはほとんどタブー。旅行者同士ならともかく、Tibetanに向かって間違っても聞かないように。聞かなくてもいいように知識を持っておくこと。
- とにかく中国人旅行者が多い。
- Lhasaでは「異境の地Tibet」や「世界の屋根Tibet高原」などということは期待できない。それが知りたければ地方に行くこと。
- 中国・四川省の成都からダイレクトに飛行機でLhasaに入ることはお勧めしない。Tibetのことが何も分からないからだ。同じ中国から入るならゴルムドからのバスにすべき。もっと言うと、峠を越え、5日間かけて行くカトマンズからのツアーがお勧め。
- 中国のビザを取るのには時間がかかるので、出発前に取っておいた方が時間の節約になる。
- カトマンズから入るなら、タメル地区などでヒマラヤ及びTibetの地図を買っておくとバスの中で楽しい。私は買わずに悔しい思いをした。
- Tibetanは商売人。交渉が嫌いな人はあまり買い物をしない方が精神衛生上いいかもしれない。大きな土産物屋は中国人経営であることが多い。本当にTibetanのことを考えるなら、金にあかせて土産物屋で高価な芸術品を買いあさるより、小さな露店でにこやかに値段交渉を楽しみながら買い物をすべきだと思う。
- 蚊はほとんどいないがハエは多い。
- 荷物は最小限に。高山だから軽い方がいろいろ得だ。
- 目的を持って旅をすること。
8月のネパール
7月のネパール
6月のネパール この人、ふだんは何しているヒト?
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